夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

歴史の中の私の人生。

私は昨日で50歳になった。

どちらかというと直観的感性で、論理的に物事を考えるのは(多くの皆さんともおなじく)苦手としているのだが、肉体年齢は気にしないように”気にしている”。

最近は、なるべく歩くようにしている。運動も、できるときにはやるように。

まあしかし、池田晶子さんも”考える日々・全編”P.512でおっしゃっている伝でゆけば、”この「五十」という年齢は、いま書いてみても、ちょっとギョッとする感じがしないでもない。いったいこれは、
誰の歳だ。”

注:原文では池田さんは自らの「四十」という歳に驚いていらっしゃいます。あと、誰の歳だ、の部分は改行はありません。記載していたら勝手にこうなっており、なんだか気に入ってしまいましたので、改行のままとしております。

さて、続けて引用してみる。〝回顧”について。

”「回顧する」というのは、自分の人生を回顧する、ということでは必ずしもない。自分の人生を回顧しようと振り返った時、その視界に、人類の人生すなわち歴史が、自然に入ってきてしまうということなのだ。”

同P.512

前の段で書かせて頂いたように、この”考える日々・全編”は先日読み終わった。
続いて読み始めたのは、”幸福に死ぬための哲学”。

幸福に死ぬための哲学――池田晶子の言葉

幸福に死ぬための哲学――池田晶子の言葉

池田さんはどこでもかわらず私(=池田某)の意見ではないところの真実をのみ語られているわけだが、さまざまな著書の中からの抜粋である。

P.20
”考えるということは、答えを求めるということじゃないんだ。考えるということは、答えがないということを知って、人が問いそのものと化すということなんだ。”

P.21
”言葉と論理、すなわちすべての思考と感覚が、そこへと収斂し断絶し、再びそこから発出してくる力の契機としての「死」。
この人生最大のイベント、これの前には、生きんがためのあれこれなど、いかに色褪せて見えることか。
死を恐れて避けようとし、生きんがためのあれこれのために生きている人は、死を考えつつ生きるという人生最大の美味を逃していると言っていい。”

P.22
”人に問うて答えが得られるのではない。
根源的な問いほど、自ら問い自ら答える以外はあり得ないのです”


こんな文章に接するとまさに”巫女”と池田さんが自らをおっしゃったということが、なんとも当たり前であることがわかる。なんというのか、いまこうしてなんの因果かここにいる。であればなにを”するのか”。

”すべきこと”は残念ながらもともとあるわけではない。運命もない。

あるのはただ、”今ここの私”。
あるのはただ、”いまここにいる永遠としての一瞬”。

であれば、考えるのである。”問いと化す”。



文章を通して池田晶子さんを知る以前、僕は”死”を考えないようにすることが、”死”をできるだけ遠ざける秘法のような気がしていた。
なぜだかわからない。
死を死ぬ瞬間まで考えないこと、これこそができるだけ生を”楽しく”生きるコツである、となんとなくそう設定してきた。

たぶん、多くの皆さんもそのような感じではないだろうか。

その感じ、池田さんはわからない。頭でわかっても、心から納得されることはないだろう。

だって、おかしいではないですか。

そう、言われて初めてなんとはなく垣間見る思いのする”凡百”の一人であるのである。

莫迦は死ななきゃなおらない”という。

厳しい格言?だなあ、と思っていたのだが、実は結構親切に真理を指し占めす言葉、なのかもしれない。

さあ、凡百たる我、今日からも頑張ります。(何に?)