皆池田晶子さんが教えてくれた。
今日は僕の誕生日である。池田さんの、お亡くなりになった日の、数日あとに、この日がやって来る。
これはもう、仕方ない。
仕方ないが、池田さんの歳を、どんどん、どんどん超えていってしまう。
"馬齢”、という言葉がよぎる。いや、それは馬に失礼か。
これはいったい、どういうことか。歳とは、いったい何なのか。
池田さんの考えに接して気付いたこと、それは、たとえば”信じること”をどう考えるか、である。
そう、信じてはいけない。断じて。考えねば、ならない、のである。
ねばならない?
考える、しかないのである。
人が出来ること。すべきこと。
今に在り、そして考える。
これだけが、人が、すべきことである。
宗教、とは、信じていない、あるいは”なんだか本当かどうかわからないぞ”という部分を持った自分の心を、無理やりそういうことにして”信じる”行為だと思う。
いや、そういうのではない、”考える宗教”も含まれてはいるだろう。しかし、”宗教”の名のもとに、強制や、集金があった時点で、それは嫌な意味の”宗教”になる。
どんな強制か。
勿論それは、人間が本質的に恐れる”死”に関する考え方に対してである。
”死”は怖い。どう考えたらいいのやら。
それが普通の人間体である。
ほら、こうですよ。
こう考えたら、怖くないですね。
そうして、誘導したら、そのあと、”お布施”。
こういうのが”宗教”であれば、そんな宗教はいらない。
”死”に対し、思考停止を少しでも強制してくるのであれば、それは”宗教”であり、考えること、即ち哲学ではありえない。
だが最近、その境界は非常にあいまいかもしれないと、思っている。
両者は、なんだか同じように、見えるときもある。
悟り、とはなにか。
永遠、とはないか。
神、とはなにか。
いや、本当わからない的に感じていること。
この世でわかりやすく不可知なことが身近にある。
無限、は結構身近にある。
それは例えばであるがこの宇宙。
宇宙は無限に広がっている?
どこに広がっているの?
宇宙が広がるまえのそこはなんていうのですか。
前宇宙?それは、”存在”の一部なのですか。
そも”存在”とはなにかが分からないが。
そこは、宇宙ではないですよね。
空間、であれば、それは宇宙との差はないですね。
ああ、思考停止、EASILY.
これは、宇宙がそもわからないことであり、それは”無”なのか、”無限”なのか。
わからない、で、唯一わかること。
それは”思考の矢”をもって、考え続けることしかない、ということ。
その矢のみが、宇宙の果てのその先を、把握しうる。
むろん目では見れないだろう。
だが、たぶん、魂では感じられる。
池田さんが、”晩年”?”魂”の語に拘られたのは、意味があるだろう。
キイ、ワード、である。
そして、心、とは?
心のこの広がりと、宇宙が広がる前のまさに”無”あるいは”無限”は、同じ物なのですか。
違うのですか。
いまは、繋がって、いるように、感じている。
この先、違う風に、感じるかもしれないが。
であれば、この”生”は、無限と、無と、神と、心と、そして”魂”と、
どのような関係にあるのですか。
ああ、池田さんに尋ねてみたい。
なんと、おっしゃることやら。
たぶん
たぶんではあるが、
一緒に考えていきましょう、
とおっしゃるような気も、している。
そんな、誕生日の一日を、過ごさせて頂いております、池田さん。
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ええと、
最近ちょっとこの場に、あまり来られてません。
それは、規則正しい生活ではないことが理由なのかも、しれません。
最近は、土曜日は、出張とか、出張とか、移動とか。
朝、考えることが、減ってしまったかもです。
まあ、ちょっと、最近考えていることもなくはない。
ので、最近気になったWORDとかをすこし。
歩き方について。
”ですから、「天からの贈り物」って、自分の体が天と繋がっているようなイメージを持つんです。そうすると体の力が抜けて、美しい姿勢で歩くことができるんです。”
松平洋史子 致知 2016.4号 P.25
歩くとき、天使とムーサが、自分の首にひもをかけて(いや、首くくりではないですよ)、ひぱってくれているイメージで歩こう、と最近思っていたので、このことばは少し心に残りました。
余談ですが、僕は、みんながつけない言葉に”お”をつける行為は、あまりよくないと思っています。そういうことで、自らを”お”をつけないひとを、区別しよう、という意図が見える場合があるように思うからです。
滲み出るように、あるいは単なる習慣で、ということはあるでしょう。ですが、それを相手にことさら意識させてしまうなあ、と思ったら、できれば普段”お”をつけていても、つけない、というような心配りが、あるいは必要なような気もしています。
これは、むつかしいPOINTだと、思いますが。
「民主主義は最悪の制度である。ただし、これまでに試みられてきた他のすべての制度を除いては」
ウインストン・チャーチル
”多くの人が節を曲げるのは、困難を避け、より安易に利益を得たいがためである。しかし、それは結局遠回りになってしまう。もともとの節を曲げず、己の信念に従って真っ直ぐに歩むこと。それこそが目的に達する一番の近道である”
P.57 致知 2016.4号 中西輝政 チャーチルのことばとして
”フランスの社会学者であるデュルケムは、「現代の人類は短期間のうちに富を急速に手に入れてしまった。急速に富を手に入れると今度は自由が欲しくなる。そして富と自由を求めた結果、あらゆる規制が疎ましくなり、守れなくなってきた。このままいくと、社会は崩壊していく」と書いています。”
四端 孟子
惻隠(思いやりの心)
羞悪 または 廉恥(自分の不善を恥じ、他人の悪を憎む心)
辞譲(人に譲る心)
是非(善悪を判断する心)
他人の悪、というのは、どう考えればいいのだろうか。
他人は自分、自分は他人、という考え方からすると、自分も他人も合わせ悪を憎む、とあるいはいうべきであろうか。
”思考にとらわれた「からだ不在」の状態から、「からだに住まう」、または「いまに在る」状態に習性が変わると、肉体は以前よりも軽く、クリアーで、いきいきと感じられます。”
P.165 エックハルト・トール
さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる
- 作者: エックハルト・トール,Eckhart Tolle,あさりみちこ,飯田史彦
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トール氏のいう、”今に生きる””今にある”という思想が、いま気になっている。
多くの人が”現在に生きろ”と言っているのに気付いた。来ない明日や過ぎた昨日のことを考えるのは意味がない、と。
この考え方は、正しい気がしている。しかし、過去や未来を忘れる、というのは、人間のSPECには簡単ではないようだ。
しかし、宇宙大の視点があれば、人間や生物、という視点は薄れる。
たぶん、そのあたりから、考える必要があるようだ。
「生は寄なり、死は帰なり」
古代中国禹王の言。
人は天地の本源から生まれて暫くこの仮の世に身を寄せるに過ぎないが、死はこの仮の世を去ってもとの本源に帰ることである、の意(広辞苑)
「水流れて元海に入り、月落ちて天を離れず」
禅語。水は流れてみな元海に帰る。月はこちらから見えなくなっても、広い天を離れることはない。
おおきく、生、魂の存在につき、考える必要があるようだ。
そして多くの語は、今、この瞬間の生こそが己がすべてであり、永遠である。それを抱きしめて生きよ、と伝えている気がする。
そして未来を思い悩まぬにしろ、自身の生と死をきちんと考えておけ、と言っている。
行き着くところは、たぶん同じなのだろう、と思っている。
同じく南嶺氏は坂村真民の詩を引用されている。
”流れてゆく 楽しい流れにしてゆこう”