常なるものを見失う。
小林秀雄は「無常といふこと」でそのような事を述べている。
生きていることは一種の動物的状態であり、死して初めて「人間として確固たる形をなす」という事を言っている。
時間という概念は、現在の人間の殆ど全てが囚われている「ただの考え方」なのだろうか。それは「科学教」と同じく、現代人の宿痾なのであろうか。
「飴のように伸びる過去と未来」というような表現を小林はしている。
飴、という語を決して上品なものとして表現していない。むしろべたついて、子供っぽくて、忌々しいものだ、と言っているのだ。
スッキリと、「今」にいるしか無いのだろう。今には過去も未来も、「今」の要素の一つとして含まれている。だがそのことは、「時間教」に囚われていると見えることはない。目の前に、あってさえもだ。
この文で「なま女房」と表現される女性は、今の語感で行けば奇妙に聞こえるのだが、つまりは「年若の女性」ということだろう。年若であるが、今に生きている。一つの魂として屹立している。そのような感興を、小林は、抱いたのだ。
今、という時代、これは私にとっての今よりもだいぶん前の昭和17年頃のことになるのだが、その「今」も、今の「今」も、
飴のように感じがちだがそうではない「今」の中に確かにあるのだ。
(小林秀雄、という魂に、池田晶子さんが惹かれたのは、必然でしたね。。。)
以下池田晶子関係古いブログ10件です。。。