ことばのように、実に不可解で、微妙で、自然と精神から生まれたもの。(後略)永遠普遍と見えるものがあること。
ヘルマン・ヘッセ 幸福論 P.42
兼好にとって徒然とは、「紛るる方なく、ただひとり在る」幸福並びに不幸をいうのである。
”縁を離れて身を閑かにし” 徒然草 75段
「正義」すなわち「正しい」ということが、自分の幸福、すなわち「善い」ということに直結するのでなければ、そんな観念に従うことに何の意味があるか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
遅ればせながら、「断捨離」を実行している。
高峰秀子も、似たような心境を語っているのに出会った。
”私の場合は、捨てることで、大きな自由と、さっぱりした気分を、手に入れた。”
高峰さんのような女優は、頂きものが多いのだろう。家も大きかったという。そこで貰った賞の楯やトロフィー、そして家までダウンサイジングしたという。そして得たのが上述の心境。まさに”断捨離”に通じる。
僕のケースはもう少し身近なところから。まずは、貰わない。
例えば道で出会うティッシュ配り。もちろんティッシュは使うものだから、貰うことは貰っていたし、彼らはとにかく貰ってもらえれば仕事が進むので、彼らを助けるつもりで貰うことにしていた。
だが、実は会社の席に置いていても、ほとんど使うことはない。なんとなくいつか使うものなので、捨てるのに罪悪感がある。でも実はみんなそのようななんとなくの罪悪感があり、長期間だらだら持ってしまうのだろう。そのあたりの心理をつかんだ広告法なのである。
会社にあったティッシュを捨ててみた。
とってもたいしたことがないが、なぜかすっきりしたキブンに。
なるほどこれか。
会社のノベルティ。貰うとなんとなく捨てるのは呉れたひとの厚意を裏切る気がする。
だが、そうか?貰った時点でその人のノベルティに込めた思いを受け取り完了しているのではないだろうか。
僕が理解した”断捨離”はそのようなものだ。
出張すると読まない新聞が1週間分すぐ溜まる。読んでないぞ、という思念が積み上げた新聞から四六時中放射されている。
実はこれは”買った新聞は読むべきだ”という自分の想い込みが反映されたものだ。そしてその想いは”負”の想いだともいえる。”やるべきことをやれないダメな自分”。
そのあたりの気持ちに自覚的になり、正面からぶつかって、処理すべきである。もったいないとも思うが、えいやと捨てるとこれまたすっきり。
断捨離かどうかはわからないが、レンジ周りを掃除。1年間ほとんど実施していない。一人暮らしのおっさんが、掃除などしなくてよい、と思っていたが、本当にそうか?
やってみるとこのすっきり感!
”やるべき掃除をやっていない自分”がこころのどこかでわだかまっていたことを実感する。
”断捨離”とは、自分の心に、丁寧に、個別に、こまめに向かい合うことだ。だから欧米では、スピリチュアルのコーナーに置かれているとも聞く。禅、ともつながる部分がある。禅僧がすべての食事をお椀一つでする。もののけ姫でもそのような描写があった。マザーテレサは、亡くなったときにサリー2枚だけを残したという。著作が売れている鈴木秀子氏は、シスターであるため印税が公のものとして管理されるため、売れていることをご存じなかったという。
さまざまな考え方があり実践がある。その心理を”断捨離”ということばに集約したことが、人々の気持ちの中で”腑に落ち”、それがブームになったのであろう。”そうなんだ、そういうことを言いたかったのだ”。
精神や知識の面でも、断捨離が可能だろう。余分なことを極力せず、考えるべきことをとことん考え尽す。
これを実行されたのが、わが池田晶子さんであろう。
2月である。
そうだ、池田さんが逝去された日が近づいてきた。
去年から1年、僕はなんらかの面で進歩したのか。
・・・なにか善いことを行ったのか。行えたのか。
忸怩たる想いではあるが、それを池田さんの魂にご報告する時期、でもある。真善美を、特に”真理”を、求めるこころを、思い出す。
死者と出会う。魂を想う。心のなかで会話をする。
・・・子供の時にはとんともったことのない想いである。
そして、むつかしい概念でもある。
そのあたりの機微も含め、全てが池田さんの著作に込められている。
改めて思う。希代の魂であったと。
全ての答えが、その著作に詰まっている。
あとはそれを受け取れるように自らを磨くのみ。
だがそれが難しい。
だが、それが楽しくもある。
池田さんの生活を見ると、断捨離なんてもともとない。いらないものをどうして持っているのですか。
そんな小気味よい声が聞こえてくるようだ。
ああ、そうですね。だが凡百たる我々は。
いや、我々などとは誤ったいいかたでした。どこかに誤魔化したい心がありました。
私は。これは。ここにあるこの魂は。
そういうべきでした。