掃除をした。
舌を噛んでケロイド状に、そして尾骶骨におでき。
さて、掃除とは体に関連する服の上にある服のようなものだ。
与えられた服なのか、自ら選んだ服なのか。
身体とは、いまの僕の感覚でいけば、”魂の仮の乗り物”。
仮だからといって、粗末にすればその”耐用年数に影響する。”
家であろうが、仮の住みかたるこの身体であろうが、心の自然な構えとしては、
例えば、汚れれば、不調となれば、なんとはなしに、”自分の管理が悪い”という気持ちがどこかに生まれるのに気付いた。
自分は体のことは気にしない。家は帰って寝るだけ。
そのように思う、あるいは思おうとすることがある。
だが自らの心を観察すれば。
どうも”無理”があるようだ。どこかで強がっている。強がる、とはそうではない心持ちを無理に押し殺すことだ。
では、”掃除せねばならない”のか。体は何時も好調に保つ”べき”なのか。
この”ならない””べき”が曲者なのだ。
強制感、がある。自分でやりたくない、というニュアンスが必ず潜んでいる。
ここが問題。
ここは、たぶん、”攻める”べきなのだ。
攻める、ためには、自らの”主人公感”が重要だ。
みずからの行いたいことは、自らが行う。勿論その結果を100%受けるのは自分である、というのが反作用としてもれなくついてくる。
これだ。
これだな。
断捨離、というのも畢竟この境地を指すのだろう。
みずから、ものを、自らの体も含み、コントロールしようという、意思、のようなもの。
これが、”主人公感”の一部である。
魂の世話、勿論これも主人公のやるべきこと。
いや、身体や家の管理の一段上の重要事項である。
。。。が、それは、実は身体と家の管理を行ったうえで行うべきものだ。
それがないと、魂にたぶん行き着かない。
で、つまり結論は、
身体と家を自分の影響下に置こう、という意思を持とう。
つまりそれが”主人公感”。
そこにはおのずから、”魂の世話”につながってくる階段がある。