夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

所有からの逃走。

エーリッヒ・フロムの”自由からの逃走”。

 

得るべきもの、望ましいもの、と感じられ、”他人”もそう思うだろうと”思われる”、

「自由」。

 

それが与えられ、いわゆる”これが自由”と思われる事々に面したとたん、

”自由という状態”が要求してくる”義務のようなもの”や”やらないと自由が続かない”

ことごと。

 

それらに取り込まれ、かかわり、疲弊するなかで、

”自由でなかった”時と同じか、場合によってはそれ以上の

”しんどさ””めんどくささ”がありますよ、

 

と書かれているというのが個人的な理解である。

 

 

いまこの”日本国”では、そのような”義務を伴う全面自由”より、

 

”自由ということにはなっているが、いろいろルール等が与えられ過ごす部分的自由”のほうがより快適で、住みやすい、

 

となっているように感じる。

 

 

他人ごとのように、”日本国”、などと言ったが、

まず、私が、そうだ。

 

”自由であるための義務”のようなものがある、自由であることは犠牲も伴うのだ、といわれれば、

 

個人的に感じるのである。

めんどくさい、と。

 

だが、ここで”めんどくさい”と思えるのは、

特殊な日本のたまたまな状況の所為で、

”めんどくさい”と思うことこそ”めんどくさい”のかもしれない。

 

ここ最近は、私、この”めんどくさい”を触覚化して、生きている感がある。

 

 

たとえば、

格闘術の師匠が、弟子に問われ答える必勝法は、すべからく”逃げること”なってである。

間髪を入れず、逃げる。

逃げることにしておく。内面化しておく。

 

たぶん、逡巡が命取りなのだろう。

逡巡は、プライドから生まれる。

 

”相手にある程度は抵抗できる”

”それくらいできないと恥ずかしい”

”せっかく格闘技を習っているのに”

 

弟子の心にあるのは、”比較”。

比較してより強者でありたい、というエゴ。

 

比較、という考え方は、私とそれ以外、という二元論がベース。

一元論のほうがいいと、今の私は思っている。

 

 

池田晶子さんもまた、こうした”めんどくささ”(池田さんは”思い込み””ドクサ”というふうにおっしゃっていたが)に意識的であられた。

 

たまさか、この世に、特に意味なく、属性、”日本人、女性”として生まれたが、本質はそうした属性には関係がない。

 

 

名前ももちろん単なる属性として

”池田某(なにがし)”と名乗られた。

 

はじめは意味がわからなかった。

 

そうした”思い込み”とは、物心がつき、この世で生活するなか、

なんとかこの生を意味があるということにしておくための苦肉の設定、というようなことだろうか。

 

これは池田さんの”神論”である気がする。

 

神、というときに、雲の上にいる白い髭の老人(なぜかだいたいは頭髪がある(笑))をイメージすることも、

 

同じく”物心以降の文化”による癖、であろうが、

 

そっちの神は、あえていえば偽神、言い過ぎであれば、”この世界を作りたもうた下位神”、そういうことにしておこう、という方便のようなものだとも言えようか。

 

 

”上位の神”には、考えや意思はない。

 

 

いわゆる、全であり、一であり、”無のない、あるいは無を含む有”である。

だから本当は”下位”や”上位”もない。

 

 

そこでいう”神”は別にこの世でいう”意識“”意向”はない。

 

 

 

 

ただ、そうある。

 

必然もない。

 

意思もない。

 

希望もない。

 

 

 

ただ、そうなった。そうなっている。そうなのだ。

 

 

それが”世界”。

 

 

 

タイトルに挙げた”所有”であるが、

所有には、所有したい、所有した、所有を続けている、という状態がある。

 

所有を失う、もある。

 

 

”自己収縮”を感じる。

 

 

モチベーション、という向きもあろうが、所有したい、に絡み取られ、

所有すればその喜びは長くて数年で薄れ消失し、

 

新たなものが欲しくなる。あるいは失くすことを恐れる”地獄”が待っている。

 

 

 

こうした所有の”めんどくささ”に人が気づき始めている。

 

 

例えば、クルマ。

 

 

 

或は、”断捨離”すべき、所有物。

 

 

実生活では断捨離には程遠いところにおりますが、

 

断捨離とは

”わくわくするもの”と”わくわくしないもの”にわけ、”わくわくしないもの”を捨てましょう、ということだと理解している。

 

 

 

たしかに、いい。

 

ここには”手放す”があり、心が軽くなる。

 

 

 

本来特に目的もなくこの世に”生まれてしまった”われわれであるが、

 

それではあまりに”寂しい”ので、

人はさまざまな目的や所有を”作り上げ”る。

 

 

生きるのに最適化した、知識、それをわかりやすく提示・表示・誇示する”学歴・資格”。

生きるのに最適化した、身体。健康。力。美貌。容姿。

生きるのに最適化した、住居、婚姻関係、家族(含む子孫)。

生きるのに最適化した、装身具(含む”ライフスタイル誇示”であり移動手段でもある車等)。

 

 

そして、そうしたことがらを以て、”生きること”に付加価値を付ける。

 

 

人生の初期には、衣食住の獲得とその高級化。

 

次のステージでは例えば”人類への貢献”、

 

”世のため人のために”

”生まれてきた以上、この世を去るときにすこしでもこの世を良くしていたい”

 

といったものを目標にする。

 

 

 

すばらしい、”人生の目的”。

 

 

 

しかしながら本当は、”生きている、という状態を所有し、経験しているだけ”

なのかもしれない。

 

 

 

生といっしょにある”死”。

 

 

死は、生と表裏一体、生があるから死がある。

 

 

はたしてそうか。

 

 

生も死も、時もこの世も、無いのだとしたら。

 

 

 

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いまの世代は”実”所有にはこだわらない。

 

 

クルマ? いらない

 

服? いらない。

 

結婚?子供?  いらない。

 

 

ここでいう”いらない”には、あってもいいし、あったらもしかして嬉しいかもという

希望はあるのだろう。

 

 

だが、当たり前のものだから、みんなが持ってるから、というのは無くなってきた。

 

 

 

代わりに来ているのは、足るを知ること、知足、なのかもしれない。

 

 

 

 

いまあるものを慈しむ。

 

 

そして唯一間違いなく持っているものとは、

 

 

今、ここにある生、だけなのかもしれない。

 

 

 

 

しかし池田さんはピルグリムで見つけた墓碑銘を引用して

 

おっしゃった。

 

 

 

”次はお前だ”

 

 

 

自由からの逃走 新版

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