二人が同じ結論に至っているということがわかる。
特にエックハルトはキリスト教の中で異端として扱われるリスクを
賭しての説教であったのだろう。
つい書き写したくなる箇所が多く、なかなか読み進められない。
読み進めるのが、惜しい気もする。
書き写すことで、ただ読むのとは違う形で文を味わえる。
そして自分の字で書かれたものを読むことは、活字を読むのとは
また違った味わいがある。
そして自分の字であることは、読みやすい、頭に入りやすい、という
感覚もある。
ランダムであるが、以下気になった文を引用してゆく。
一部自分の覚え、も交じっている点、本来はまずいのだろうが
ご容赦願いたい。
”勝利の賛歌” 悟りを開いた仏陀が発したものとされる
この仮小屋の造り主を求め歩く時、
いくたびかの生を経巡っても
私の努力は無駄ごとに終わってしまった。
そこでくり返し受ける生の何と退屈至極なことか。
されど今や仮小屋の造り主たる汝は突きとめられたのだ。
汝は二度と再びこの仮小屋を建てぬであろう。
屋根を支える垂木も皆毀れてしまった。
棟木も打ち砕かれてしまった。
永遠に近づきつつある心は
あらゆる欲望の終滅を達成したのだ
P.79
注)大拙解釈では、”永遠に近づきつつある心”とは、
”自己を条件づける集合体(sankhara)への捉われからすかり自由になった心”のこととした。
sankhara :諸行無常 サンカーラ
panna :パンニャ 般若の語源。智慧(知恵ではない)
dhamma:ものみなすべて。ダンマ。ダルマ。宇宙の法と秩序
神は深い静けさの中で、自らを照らしている光だ
エックハルトの言葉 P.75
時(ZIT),身体(Liplicheit),そして多様性(manicvaltikeit)を超える時、われわれは神に到達するのである。
エックハルトの言葉 P.101
私が神を見ている眼は、神が私を見たもう眼と同一である。
私の眼と神の眼は一つの眼、一つの影像、一つの智、一つの愛である。
エックハルトの言葉 P.88
知性の役割は、自らを超えたいろいろな種類の問いを提出することによって、心をより高次の意識の場に導くことにある。
P.85
父なる神の言葉は、彼の自己理解に他ならない。
父なる神の理解していることは何かと言えば、自分が理解していることが
分かっていることを指し、自分の理解が分かっているということは、父なる 神が理解の根本主体であるということに他ならぬ。
つまり光から由来する光なのだ。
エックハルトの言葉 P.75
よって、さとりの体験というものは、心理学の世界を超え、般若の智慧の眼を開き、 そして、究極の実在の領域を洞察し、輪廻の流れの彼岸に着地することを意味している。
その到達する世界においては、すべてのものがありのままに、汚れのない在り方で 眺望できるのである。
この時こそ人はわが心が、すべてのモノから解放され(sabbatta vimuttamanasa)てあることに気づくのだ。
このとき彼は、生死や無常や未来・過去・現在といった思いに少しも振り廻されることがない。
P.76
このように目覚めた人は相対を絶する征服者であって、何らかの足跡を遺さぬため、
誰もその足跡を追うことはできぬ。
彼の住している領域には際限はなく、それはあたかも、円周が無限である円のようなものである。
それ故、道をつけられるような中心もない。
このような姿が、禅では無功用行(anabhogacarya)(はからいのない、目的意識を離れた、無用の人)として描かれている人間像である。
これは”何ものにも執しないし、その人を何ものにも執することのない人”(エヴァンス訳、146頁)と定義されるエックハルトの自由人に相当する。
P.77
ソクラテス、プラトン、グノーシス神話、老子、仏陀、禅仏教、エックハルト、
さまざまな人々が同音異曲といった体で、生老病死を語ってきた気がする。
たぶん、言葉というものの不確かさで、正確には把握しきれないものなのだろうが、
見ていた風景、見ている真実はたぶん同じものだったのだろう、と
感じている。