夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

9月4日 成熟とはなにか。人はそもそも成熟できるのか。いまはなかなかこの日本では成熟できない気がする。

攻撃的で冷笑的であることが生き延びる上では力強い「ウェポン」になるということを経験的に習得してしまった若い人たち

内田樹 内田樹の研究室 2024.7.27

人はまず、自身の”SOME DOUGH"(=もともとはパン種。チャップリンの時代であればそれこそ基礎となる食料、という意味だろう。そこから転じて金、あるいは”ゼニ”というニュアンスか)が確保されている、という感覚と余裕が生きてゆく上で必要である。

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個人でそれを確保しなければ誰も気にかけてくれない、とこころから感じていれば、それ(とにかくなんでもいいから食い扶持を確保すること)が人生の最上級最優先でなすべきこととなるだろう。

 

だが、なんらかの形でそれが確保されれば、自分以外の社会をよくする、という視線が生まれる余地がすこしだけ出る気がする。

だが、全ての人に、ではない。

どういう人にだろうか。

 

ノブリスオブリージュ、という言葉をある時期よく聞いた。

難しい言葉で、この日本ではそもそもそういう言葉が生まれえただろうか、と思う。

 

単純に社会をよくする貴族の義務、というと、与えられたものが特権的に、後天的に得る意識、とまずは言えるのかも知れない。

 

それが自分ではなく、一族、という意味であれば(貴族は先祖の遺産で食べているだろうから)一見すこしは立派に見えるかもしれないが、所詮は”身内が幸せに”という近視眼的意識に留まることもあろう。

 

だが、そののあと、種族、国、そして人類、と広がれば、そしてそれを本当に希求する人であれば、その人はあるいは”成熟した人”と言えるかもしれない、とは思う。

 

そこまでハードルを上げるのであれば、そういう人はなかなか出あえない、という感じを私はもっている。

 

そこでそこに至ることがあった人を生んだのが”宗教”という仕組みかもしれない。生業としての宗教の仕組みに取り込まれれば、あるいは体系的な学びも得ることができる可能性がある。食も与えられるだろう。日本でも"小僧”として寺院の仕組みに入って、長じて名僧になるケースもあったろう。

 

(そもそも子供を”小僧”と普通に呼びかける言葉が日常であることからも、この国で仏教が日常に織り込まれていたことを想う。多分今はあまりこの呼称も使われない気がするが。。)

 

ソクラテスプラトンが、哲人教育(子供を哲学者が育てる)という思想を持ったのも、似たところからかもしれない。

 

内田さんは、100人の内である程度(割合を忘れてしまったが)の割合で成熟した大人が含まれていれば社会は回る、とおっしゃっていたと認識している(個人の理解ですが)。

 

で、そういう成熟者が少なくなった、ということが、冒頭の一言であろうと思う。

 

私がそうした成熟者としてまず思い出すのは、村上春樹さんだ。

 

あとは池田晶子さんだろうか。

 

人間が奇跡としての生を”生きる””生きている”というこの世界を、”生まれたからには自身が生まれたときより良くして死のう”というような思いを持つ人こそが、成熟した人であろうと思う。

 

こういう人は相当少ない気がする。

100人いて1人いればいい方ではないかというのが体感だ。。

 

あまり人生でそういう人にリアルで出会ったことがない。

なので、読書というのが重要なのですが)

 

そう、本の中以外では出会っていない。

 

内田さんに指摘されるまでもなく、私は”なんとか自分(とその家族は最低)”は生き延びよう、としか思ってこなかった。

 

自分の残念な実力からして、生き延びることは相当難しいだろう、とそれこそ小学校4年位から思ってきた(実感としては幼稚園のころが初めだろうか)。。

 

”自分が生まれたこの人間界というところは、弱肉強食、基本逃げ場はない”と思ってきた。

 

なので、グノーシス派の言った、”この世界は基本汚れたところ”という思想にも共感してしまうのだろう。

 

できるだけ自身を強くすること(精神面はともかく肉体的には)、求められる(本当はやりたくもない)日本的体育会的コミュニケーション術を身に着けよう、ということを高校3年の時生存戦略として採用した。

(身体を強く、は中2くらいからかな)

 

なので、自分を守るには”攻撃的で、冷笑的である”ことが有用であることは、身に染みてわかる。

そうでなければ、生き延びられるのか、と思う。

 

だが、だが、

 

そういうひとしかいないと、世界がやばいのもわかる。村上春樹さんと、池田晶子さんと、そして例えば森博嗣さんだけに、世界をまかせていいのだろうか。

 

とも思う。だが、いったいどうすればいいのだろうか。

 

一つの可能性は、”すべての人は私である。わたしは一である”と、慎重にひそやかに池田さんがおっしゃったような境地に至ること、ではないかという気がしてはいる。

 

(衣食足りて、礼節を知る、といいます。いまは”将来衣食足りないかも”とほとんどすべての人が思っている気がします。であれば礼節はなかなか難しい気がしています。森さんは余裕がないと国に美術館や博物館は存在できない、といいます。今の日本は基本存在できない気がします。。(勿論存在するために、集金装置としての特別展示をせざるを得ない”美術館”はあります。ですが無料で閲覧、模写もし放題のルーブルのような美術館が日本で出現することは、残念ながら将来も日本では無理な気がします)) 

 

 

 

 

共感ベース社会の陥穽

2024-07-27 samedi