欲するものではなく、気がつくものだ。
2007年2月23日午後9時半に池田さんが亡くなられて、8年が過ぎた。
嗚呼、8年。長いような、あっという間のような。
先週、出張で飛行機に乗っていた。機中で、池田さんを、読んだ。
今はどこにいらっしゃるやら定かではないのだが、遍くいらっしゃりつつも、こうして飛行しているとなんとはなく池田さんがより近くにいらっしゃるような気がしてくる。
池田さんはいつかひとは”魂”をイメージするとき、あのマンガの吹きだしを思い出すようだ、とおっしゃっていたような気がするのだが、いやまさか、池田さんが吹きだしと化していらっしゃるとは思えない。
しかし何とはなしに、酒びんの近くにいらっしゃるように思うのは不謹慎であろうか。いや、たぶん池田さんは笑ってゆるして下さるように思う。
”考える日々”冒頭に記されている、読売新聞1998年1月4日版のコピーを手に入れた。
ああ、これか。
池田さんは、やはりここでも、(読売新聞でも)池田さんである。
というか、そのエッセンスがぎゅうぎゅう詰めに詰まっている。
見事なほどだ。
池田さんは昔ご自身でかかれた文書を読み返して、感嘆されていたことを思いだす。ずっと、同じことを言っている。同じことしか、言ってない。
読売新聞でも、また。
同じだ。
同じ、ということはワンパターンであることではない。真実だけを述べていれば、自然そうなる。
池田さんが述べられているのではない。真実が自らを表し、語っているのだ。
真実とは、”言葉”ともいう。
当時の政治部長、橋本五郎氏は対談後の思いをこう締めくくっている。
”足元を見つめ直し、「何のために自分は生きているのか」という根源的な問いを自らに発することの、余りに少ない日常に忸怩たる想いを覚える。”
ME TOO、である。いや、橋本氏よりももっと切実かもしれない。易きに流される。あまりに簡単に。あまりに安易に。
川に流されるが如き日々、縋り付くように読むのが池田さんの言葉。
力を、いただく。
違う視点を、見せていただく。
時に、笑いも、いただく。
なぜか、涙ぐむこともある。(これはなぜだかよくわからない)
毎年、いささか感傷的になってしまう、2月23日。
池田さん、これからも?よろしくお願い致します。