夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

一日の王。

一日の王、という考え方を読んだ。

物事は、物サイドと心サイドとの間での立ち位置の引っ張り合い、という気がしている。


これは”物欲”、”知足”、そして”経験すること”ということが関係している。

自らが持っているもの、奇跡的な素晴らしいもの、それは”いまこの瞬間である”という結論は、結構いろいろなところで読み聞きする。気を付けると、みんなの結論はこのことだけだ、という気さえする。


今を抱きしめて。

一時一事。

断捨離。

ご先祖様に感謝。


こんなキイワードを思いついてみるが、そこの根底には実はすべてこの言葉が”下敷き”されてないですか?そう、”瞬間(いま)”。

すこし、話がずれるようだが。



経験することのうれしさとさみしさ、いったいどちらが”シアワセ”なのか。


こんな命題(ま、自分かってな、ですが)もある。


卑近な例ですが。


おいしいものを食べる。幸せ。それが続く。それが当たり前。
食べられなくなる=財政的な理由等から。

昔食べたものに戻る。おいしくない=零落した人生。


この構図は、どうなのだろう。

すこし、ステレオタイプだ。



そこからダイブできるのは。

たとえば、そうである自分のこころの動きを見つめる。所詮外在的な”金で買う必要のある、手間をかけた美味さ”であることに思い至る。

そこをしっかり見つめる。

ここででてくるのが、

”物サイド、心サイド”の考え方。


そう、物にとらわれることの、継続困難性(=すごく続いても最後は死ぬ、死がなにかはおいておいて。死とはなにか、に続くが、これは”心サイド”の話)の自覚。

金を出さないと手に入らないものは、おいしくないのか?

そうか?

ほんとうにそうか??


このあたりは禅問答が入って来る。



考えさえすれば、結論は同じ。


”そうではない”。



ただ、考えるのが、案外難しい。


かわいそうな自分。

かわいそうな境遇。


世間がわるい、政治がわるい、国がわるい。




そうですか?


池田晶子さんはこうおっしゃった。


”社会はいらない。社会性はある”


こうもおっしゃった。金を見て。


これはなにをするものかが本当にわからない。



これは痴呆ではない。一度行って、帰って来たひとの”わからない”だ。


まあ、日常生活で、いまレジを打っているパートの方に言って、わかるかどうかは別にして。いや、パートを莫迦にしているのではない。パート中は考えるのが難しかろう、という意味だけなのだが。


美味いものを食べて、やがて哀しき、は必定、ただし、



そこから出発し、たぶん”知足”のステージへゆき”沈思黙考”を経るのであれば、現世へ帰還できる。

”今”を抱きしめつつ。


今、をこころに秘めて、美味なるものを食すれば、それがなくなると不幸になるもの(=日本死ね)ではないコンコロモチで相対すれば、そこには違う意味での感謝があるだろう。


これが、本来の意味での”おもてなし”なのだろう。

まちがっても”こんだけしてあげた、カネをたくさんはらうよな?”、という意味ではない。


たぶん観光誘致ではその意味で使っているが。



だから底が見える。さもしい。


もっというなれば下品(げぼん)。


これも池田さんがおっしゃったことば。”もっと差別をしよう”。

下品であることは、自分の魂にとって悪い。すべての人に対してたぶんそうだ。


だから池田さんのアジテーションは、すこし偽悪的ながらすごくおせっかい的愛に満ちている。


で、これがわかりにくい、と来ている。



これこそが”禅問答”の正しい在り姿、なのかもしれないが。