池田さんの文章で折に触れ、最近よく思い出すものがある。
”差別はいけないドクサ”に真正面から切り込まれたもの。
曰く”差別はいけないが、上品(じょうぼん)、下品(げぼん)の魂の区別はある。多いに区別すべし”。
区別、いいのか!!!
”天才はすごい”という、ごく普通のドクサに対しても、一喝。
”天才はすごくない”(孤独ではあるかもしれないが)。
天才、すごくないのか!!!!
目から鱗がだいぶん落ちた気がしたものだ。
ひとには、生与の条件がある。
背が高い、肌の色、性別、脳の能力。努力する持久力のようなものも。
この、ある意味いかんともしがたい差異を、おもい、患い、嫉妬する。
これこそがすべての苦しさの元凶である。
差別するこころを良くみてみると、そこにうずくまる恐怖が見つかる。その恐怖とは、”次はお前だ”である。
こいつは今は確かに自分より"下”かもしれない。
だが自分は”上”を本当にキープできるのか?
未来永劫??
あり得ない。この自分の中にあるどす黒い優越感を、みずから受ける日が来る。必ず来る。
それがわかっている。
あああ、いやだーーーーーーー
こわいーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー、
である。
この恐れの存在を理解し、直視し、解消すべきだ。
そこに自由がある。
池田さんは、差別はいけないが、区別はいい、とおっしゃった。
区別=上品(じょうぼん)、下品(げぼん)。
かつて援助交際がなぜわるい、誰に迷惑をかけた、という援助交際者本人からの(ある意味悲鳴のような)しぼりだすような吐露に対し、誰にも迷惑はかけてはいないが、お前の魂にわるい、と池田さんは喝破された。
お前の魂に悪い。
その言いっぷりに、大きな、菩薩心を感じる。
ソクラテスがいうように、”魂の世話”のためにこの世に、この生にあるのであれば、いかんともしがたい天与の差に思い患っている暇などはない。
自らの魂を抱き、大切に育てる(チェリッシュ)すべきなのである。
万物に貴賤なし。ただ差異と区別のみあり。
人であること、毛虫であること。それはすべて偶然。人であることが別に偉いわけではない。ただ、与えられたものが違うのみ。
これは、人としての能力の差異と、レベルは違うが根本は同じ。
このコップも、このほこりも。
差が、在るだけである。
そしてもし”全は一、一は全”と考えるのであれば、
このほこりと私は全のなかの一部である、とこうなる。
ほこりは、私である。