ケン・ウィルバー”存在することのシンプルな感覚”を図書館で借りた。
絶版本で、古本での入手はちと困難なようだ。
明々白々なことではないだろうか。あなたは、すでに「今、ここに、いる」ということに気が付いていないだろうか。あなたは、すでにこのシンプルな「今、ここにいる」ということを感じてはいないだろうか。あなたはすでに、究極の「スピリット」の関門に立っているのだが、それは、この「今、ここにいる」という、このシンプルなフィーリングにほかならないのだ。あなたは、今、このフィーリングを感じているはずである。今も、そして、今も。
(P.5 序文)
”今も、そして、今も。”
この少しく奇妙に聞こえる(かも知れない)フレーズが、奇妙ではなく、気付きを促している。
”普通なら” 今も、そして明日も、かもしれない。だが、今あることは、今もつぎ?も今だ。ずっと、今なのだ。
すでにこの「感じ(フィーリング)」が「スピリット」そのものであることを認識しただろうか。この感じが「至高神」(究極の神)そのものであることを認識しただろうか。「空」そのものであることを認識しただろうか。「スピリット」は存在として飛び出してくるものではない。それはあなたの経験のなかで、たった一つ、常に変わらないもの、定数である。それが「今、ここにある」という、このシンプルなフィーリングである。
スピリット、神、という言葉から、従来のドクサ、あるいはこの日本という時空のなかで過ごしていて感じる印象は、”スピリットという意識を持った存在”と”それを信じる”残念な人格(他人であり自分ではない)”というものだ。”神”を信じる、残念な人格、という印象かもしれない。神が残念なわけではない。だが、”その信じ方はどうなのか”という思いもまた、この語の周りを浮遊するドクサである。
ケンは、その感覚を”存在として飛び出してくる”と言っている。その”存在”ではない、”飛びだ”さない、よ、と。
かすかながら、常に変わらず、背景にあるこの意識。
背景、なのである。感じていないようで、”魂は知っている”感覚。
もし、とても間近に、ゆっくりと注意を払ってみれば、あなたはビッグ・バン以来、そしてそれ以前から、この意識とともにあったことに気が付くだろう。あなたはその時存在していた、というのではない。実際にはあなたは時間が始まる以前から、この時間のない「今」という瞬間に存在していたのだ。
これらの文言は、”自分”ということで(仮に)ここに”ある”このこれ(池田さんのおっしゃる池田某)が、正面から対峙し、見つめるべきものだと思う。いろいろな”他人”といわれる”自分”が対峙された場合、これはさまざまな思いが渦巻くだろう。一律な反応では、ない、だろう。
その感覚が、この「今、ここにいる」というシンプルなフィーリングである。今、ここにいる、という感覚。今も、そして今も、常に、そして永遠に、今である。
あなたは今、ここにいるということを感じている。すでに悟っていないものなど、どこにいるのだろうか。
ウィルバーの、この文を序文で引用した、この本の編者(そう、この本はウィルバーの著作群からのアンソロジーなのだ)は言う。
こうした文章では、ウィルバーはやさしくぼくたちの手をとり、ぼくたちの本来の「自己」の広大な開けに案内してくれる。そしてそこに、この輝く無限の開けに、今、しばし留まるように、うながしてくれるのだ。
そう、まさに”無限の開け”である。みはらしのよい、というかまさに、空を見た時に感じる”ああ、このさきはどこへいっても。距離というものはない、ということに、毎日毎秒、”今”、接しているのだなあ”というあの思いともつながる、そんな思いにつれていってもらっている。
今。