何度か書いた気がするが、自分自身でもよく忘れるので、備忘がてら。
将らず 迎えず 応じて而して蔵めず 荘子
字は少し古風ではあるが、一度読むと読めなくはない。
将軍、とは軍を戦争の為に率いる、すなわち王からすれば軍を戦地に送ることを行う人のことだ。なので将軍の将を”おくる”と読む。
而して、ということばは、日常生活では使わない言葉である。しかし”しかして”とつぶやけば、だいたいの意味はぼんやりと立ち上ってくる。まあ、”BUT"の意味であろう。
蔵、の文字を使って”おさめず”と読めば、いかにも”貯蔵する”という意味がこちらもじわりと脳みそにしみ込んでくる気がする。
今の時代によく使う漢字になおせば、読みやすくはなるが、本来の意味が希釈されてしまう感じがある。なので、敢えてこの漢字ベースで、思いだすことを個人的にはこだわっている。
勿論、脳内でつぶやくときは、漢字と共に、というわけではないが。
話が脱線するが、私は子供のころ、運動が苦手で同じ本ばかりを読み続けたおかげで、漢字の読みは得意であった。だが、書けない。
漢字書き取りテスト、はあまりできなかった。
国語という教科、すなわち現代文の部分であるが、これは勉強しなくてもいい科目、としてありがたく思っていた。しかしどうやら、漢字はやらないといけないな。
ということで、通学時間往復4時間であった私は、電車の中で漢字を覚える必要があった。
だが基本的には、漢字は書きまくらなければ、覚えられない。狂ったように書きなぐり、できれば2B位の鉛筆でノート全面を真っ黒にする。そうするとその”視覚感覚”で”やってやった感”が沸き起こり、”こんだけやったらそら覚えるわな”という感覚を持って満足する。
というのが、本当はいいのだが。電車でそれをやれば(やれなくは、ないが)まあ、気持ち悪い風景になってしまうだろう。
ということで、脳内、というか脳みそに漢字を刻む的な画像を思い浮かべる、というテクニックを編み出した。一筆ずつ、脳内にバーチャルで、書く。
すこし時間と精神力を使うのだが、これはなかなか悪くなくて、漢字はだいたい、書けるようになった。完璧では、ないのだが。
荘子のこの言葉を、書き出してみて、そんなことを思いだした。
この言葉、大体は皆さん意味がわかると思うのだが、一応解説してみる。
”自己収縮”として、こころは様々なゆらぎを自然と生む。悩ましい出来事に遭遇すれば、なやましい”自己収縮”がこころに溜まる。
ケン・ウィルバーはその著書、”存在することのシンプルな感覚”の中で、”「目撃者」に落ち着く”ということを述べている(P.37)。
自己収縮を感じる。「目撃者」は自己収縮を感じているものである。したがって「目撃者」は自己収縮ではない。あなたは、「目撃者」である。
開け、自由、空性、解放のなかに安らぐ。自己収縮を感じる。ありのままにまかせよ(Let it be)。
言葉や名前には、長く世間で使われていると、決まった意味、ときにはネガティブなイメージなどが“燻重”してくる。池田晶子さんは、これを”ドクサ”といった。そしてドクサには意識的であれ、気を付けよ、と述べられた。
ケン・ウィルバーは、自らの考えが”スピリチュアル”である、といわれるのを喜ばなかった。語本来の意味であれば、それほどの嫌悪感を示さなかったかもしれない。だが、その”スピリチュアル”という語を聞いたときに感じる、語に関係するさまざまなイメージは、どちらかというとともすれば”うさんくささ”につながるきらいがある。
日本でも、そうかもしれない。
いずれにせよ、スピリチュアルであろうがなかろうが、人間が生きる上で”エゴ”という働きはあるだろう。自己収縮=エゴ、といってもいいかもしれない。
そして、自己収縮の存在は否定せずとも、それは自らの一部ではない、単なる例えば“暑い”、”寒い”と同じ様な”嫌だ”という自分のそとの事象であることに、意識的であれ、と言ったのだと、理解している。
生きていると、”嫌だ”という思いが起き、そしてその思いをつい、自らに取りこみ、嫌だというものを含んだ自分、と言う風に思うものだ。なぜだろうか。多分これが”エゴ”の存在理由だと思う。
だが違うぞ、と。
あくまで、自分の外にあるぞ、と。
そう、ケンは言っているのである。
そして多分、ケンと同じことを、荘子も言っているのである。
まあ、どちらかというと、荘子からケンが学んだのかもしれないが。
荘子もまた、”嫌な思い”を将来に送るな。過去から送られてきても受け取るな、来れば理解して対応しても、それを気持ちに残すな、と言っている。
そしてそれを私は実践しようとしているのだが、
総じて快調、である。
(気持ちが楽に、なりますね)