夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

「真面目」の語感。

14歳からの哲学 考えるための教科書

今朝朝は64.6kg、体脂肪率7.6%。今日はタニタ体重計さんのご機嫌が麗しいようだ。

真面目、という語のドクサと語感について。

この「ドクサ」という語、一般的ではないのかもしれないが、私は池田晶子さんがおっしゃった(と自分では理解している)意味で使おうとしている。

つまりはその言葉の本質以外の長年の使用傾向により言葉に(図らずも)染みついてしまったような意味、という感じである。だいたいが、あんまりいい意味ではない。

日本人は真面目だ、というような表現を聞くことがある。この言いっぷりを聞くとき、私は「日本人以外は気楽で不真面目だ」「日本人は素晴らしい」と言いたいような話者の意向を警戒してしまうのだ。

いや、そのことがYES,とかNOとかではない。そういう「ひっくるめ」議論自体が、私は苦手だ、ということだ。

池田さんもまた「われらオウム世代」などという同世代の人々に文句をおっしゃっていた(池田さんは1960年生まれ)。池田さんの生まれのことを言ったがたぶん池田さんはご自身の属性自体を問題にされていなかった。たまたま「日本」と呼ばれる地域で、たまたま「女性」と言われる属性で生まれた魂、とお考えだったのだろう。「みんな自分を限定しすぎ」。

ドクサ、で長くなった。いずれにせよ、私は「真面目」という語があまり好きではない。聞くたびに「あなた真面目ではない」と糾弾されているような気もちになるし、そういう気持ちになること自体が残念だなあ、と思うからだ。

では自分も「真面目」になればいいではないか、客観的に真面目ではなくとも、自分にとっての「真面目」でいいではないか。そうも思う。そしてやっぱり自分は「真面目」にはなりたくないのだ。自分基準であってさえも。

これはもう、自身の生まれつき仕様、SPEC、癖、傾向、としかいいようがない。私は「不真面目こそすばらしい」という魂を持って生まれたのだ。

幸か不幸か、一見そうは見えない、とも言われる。真面目そう、といわれることさえ(昔は)あった。そういわれるたびに、「違いますよ」と胸のなかで呟き、「そうかこの人には機会があればそうではない、とじわじわわかってもらわねば」と思ってきた。

思い出せば寄せ集めの私立中学1年生で、私は「幹事」を仰せつかった。これは自慢だが、2学期で「地理」が「30点台」であったことで、すぐに箔がはがれた。合わせて、実は自慢なのだ。

小さな中学生集団で、(その後6年間もちろん一度も幹事に返り咲くことはなかった)、しかしたぶんはじめに幹事だった、という印象は強かったようで、その後もなんとなくそんな風に敬遠された扱いを受けることがあった。6年かけて、意地で、「実はオタクな漫画好き」という本質を皆さんに伝えたい、そんな日々であった。

懐かしい、日々である。

こうして大人になってしまってはいるが、実は同じような感じで日々を生きている。

不滅の哲学 池田晶子