そして鈴木大拙がアプローチした禅。
西田幾多郎は大学の講義で、エックハルトを”キリスト教の禅坊主”と称したという。
この3者(3主義)にわざわざ区別や優劣をつける必要はないだろう。
そこには大書されている、”一”と。
だが言葉である”一”にこだわり、あえていえば引っ張られて取り込まれることがある。
一、の発する熱が高いことがあるだろう、やむを得ないことだ。
一だから、”多”ではない。一として“ある”から“無”ではない。
そんなふうに。
だがここの”一”は上へも、下へも、水平へも無限(もちろん)に伸びるもの。
伸びる先も一、伸びてゆくのも”一”。
主格転倒、攻守逆転、わたしがあなたであなたもわたし。
そんな“溶解世界”なのである。
そこで”神秘主義”の語もまた、語としてのゆがみと弱さをはらむ。
”神秘”である。まずはこの語。ドクサまみれ、ドクサ自身、ドクサが生まれすぎる言葉であるといっていい。
”神”、ですよ?
秘めて、いるんですよ?
そして”主義”ですよ??
日本語が西欧語の訳語として、漢字が元から持つ成り立ちと意味の機能から
有用で、”そもその語を見るとなんとなく意味が分かる”機能があることはよくわかっているのだが、
であるがゆえに、”こうだよね”という思い込みもまた、EASYに湧き出る弱みがある。
神、といえば(基本仏様と対局にある西洋輸入の神格)となりがちだし、それは”基本自分とは別の思想体系”と思ってしまうこともあるだろう。
秘、といえば、自ずから隠れることもあるだろうが、だれかがなにかの意図をもって隠すようにも感じられるし、
主義、とくればこれはもう、”日々の食べるため生きるための卑賎でかつ本質的な生きざま”からともすれば”忘れ、没頭し、あるいは逃避する思想生活、という雰囲気をまとう語ともなりうる。
だから、”神秘主義”が”一”といっている、ということになると、
そのことによる”他人事感”が一を私やあなたから引き離すことがある。
でも、それ、
そのこともまた、”一”なんですけどね。