禅と日本文化 を読みだした。
そもそも本書は翻訳書である。
アメリカ人の禅との(たぶん)初邂逅のための手引きとして
英文で記したものだ。
そしてそれを、大拙ではない北川桃雄氏が訳している。
”たいていは吾意をえている”
そのころの日本人は、禅と身近だったのだろうか。
(前略)個々の事物をそれ自体で完全なるものとみると同時に、「一」に属する「多」の性質を体現するものとみる禅の方法(攻略)
p.20
禅は、無明(アヴイデイア)と業(カルマ)の密雲に包まれてわれわれのうちに眠っている般若を目ざまそうとするのである。
p.3
余談であるが、池田晶子さんがたしか日本酒の一升瓶をよなよなお飲みになり、宇宙へと意識を飛翔突出され、思考に”うしろあたまから”潜られかずかずのヒントを得られたと書かれていた部分が大好きなのだが、
そのときこそ酒が”般若湯”、つまり般若=智慧(ブラジユニア)、である、ということが実感できるわい、と、これも普段から思っていることをここで思いだした。
それまでは、酒を般若湯、と呼ぶのは酒飲みの方便か、と思っていたので。たぶん、両方とも真実を含む(笑)。方便も、是れ良し(笑)。
・・・日本人が禅と身近であったかという話であった。
この翻訳書が出たのが昭和15年、1940年である。たとえば茶の湯、たとえば掛け軸の南宋画、例えば”一休頓智話”や参禅。
もしかすると今の日本での状況よりは少しく身近であったのかもしれない。
人には2種類あり、”今が過去より良い”と思うか、”過去は今より良い”と思うかのどちらかであるとかねがね感じてきた。
禅の境地からすれば、過去や未来はなく、すべてが一、時もなく”即今”であるので、そう思うことはいいが別に意味なし、と
こうなるのかもしれないが、まあ、わたしたる”過去や今のひとびと”がどう感じるかということであった。
日本が、世界でどうするべきだ。世界はこうあるべきだ。そのために”昔はよかった”。
こういう思想があり、その思想に”密包”されることはある。
そのことは、別にいいもわるいもない。ただ”そう感じざるをえない段階”があるだけであるから。気温が何度であろうとも、そこに意思はない。ただそうある。
それと同じである。が、
こういう方向がいいなという、意思ではないが”わたしである皆さん”がそこにあるほうが心地よい境地、世界、というものはあると思う。
そうすべき、というのではないが、そうあれば”よき境地にあることができる”ような。
”今と昔と””人の環境は””違う”のかもしれないが、今。
今、ここで大拙の説く、禅の境地が、とにかくこの本ではわかりやすく入ってくる。
英語にするときは、その本質を言葉に置き換えねば伝わらない。
日本語の持つ、薫蒸されたドクサで書けば、さまざまな意味を文章は持ちすぎる。
一度英語に翻訳し、それを別の人間が”英語を日本語にする”という意識で再び日本語にする。
そこにはなんともいえないわかりやすさが生まれる。
そこのところは、この本が実は日本人の、今、もしかすると禅とはあまり身近にあることがなかった、ない、わたし、あなた、に
禅を直截に伝えてくれるのだと思う。それは
大拙に、英語で禅を伝えられた米国のひとびとの感動感覚と
ほぼニアリーイコール、であるのだと思う。
ああ、人口に膾炙していない外来語を使うときは、
胡麻化したい、時かもしれないが(笑)。