夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

コロナとオウム。

夏目漱石草枕 を

 

キンドルの無料インストールで入手して、読み始めた。

 

 

 

まずは漱石、いままでほとんど読んだことはない。

 

 

 

もっと他に読む本がある。

 

ずっとそう思ってきた。

 

 

 

国語の授業で筆者名と作品名を覚えなければいけない時点で、

 

それが”おしつけられた””勉強のための””万人が読むべき””教養の”

 

ものとなり、

 

 

 

国語は勉強ではなく趣味である、という意地とプライドが

あった為か、遠ざけた。

 

いや、損したなあ。

 

 

 

思えば失楽園ヘルマン・ヘッセ、そして小林秀雄

 

”教科書に載っているのにもかかわらず”読むとすばらしい本たちに、

 

いままでなんども出会っているではないか。

 

 

 

 

今、本をなるべく、買わないようにしている。

 

 

 

理由は一つ、”部屋にあまりに本が多すぎて、これ以上入らない”。

 

 

本を買っても、忘れてしまう。

 

本たちのなかに、紛れてしまう。

 

 

 

これは困ったことっではあるのだが、一面楽しいことでもある。

 

たまに山をひっくり返すことがあるが、

 

 

思わぬ本を発見する。読みたく、なる。

 

そして、だいたいが面白い。

 

 

 

 

ああ、人生この本に出合ってなければやばかった。買っていてよかった。

 

 

などと狭い天井を見て詠嘆する。

 

 

ということが、何度あっただろうか。

 

 

だが、林立する本入りのダンボールの山を見て、

 

 

子供に言われた。

 

 

パパ、地震の時に潰される。

 

 

やはり子供に言われるとつらい。

 

 

しかもこの子は私に似て、大の片づけ嫌いだ。

 

 

その子に言われてしまえば。

 

 

これはいかん、と大量に古本屋と、まんだらけに持ち込んだ。

(もちろん、漫画も大量にある)

 

 

そしてもちろん買い取り額は大体わかっている。

 

 

この本がこんなに安く、なんて思わない。

 

 

だが、”いつか絶対読む、読んだとき詠嘆して天井を見上げる”(予定の)本たちを、

 

志半ばで(つまり読まないで)身売りする。

 

 

この辛さ。

 

 

 

しかしいまにして思えばこれこそ”エゴ”。

 

 

”未来の本を読んでいる自分への現在の投資”

 

 

これは現在の、即今の自分を軽視する、生き残るためのエゴの働き

 

そのものである。

 

 

であればのキンドル。であればの電子書籍

 

 

 

文章の中に、漱石が、漱石の言霊が、

 

紙でなくても入っている。

 

 

蛇足が長くなりました。

 

冒頭有名な

 

智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

 

という文の後に痺れた。

 

住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。

どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画が出来る。

 

後段には、こうある。

ただ菜の花を遠く望んだときに眼が醒める。

雲雀の声を聞いたときに魂のありかが判然する。

雲雀の鳴くのは口で鳴くのではない、魂全体が鳴くのだ。

魂の活動が声にあらわれたもののうちで、あれほど元気のあるものはない。

ああ愉快だ。

 

 キンドルなのでページが提示(笑)できないが第一章、冒頭の部分である。

 

 

 

鳥の声、明け方にさえずる声を楽しみにしている。

 

 

鳥ののどを通じて声はでるが、鳴き声はのどではない。

死すときに痛みはあろうが、痛みは死ではない。

 

 

声は一瞬で過ぎ去る気配を持つ永遠である。

 

聞こえるときの愉悦、漱石は言う。”ああ愉快だ。”

 

 

この声はまた、先日書いた芭蕉が耳にした古池に蛙が飛び込むときの音、

 

 

と同じである。もちろん、すべての音は同じである。

 

 

だが、古池でも蛙でもない”音”。愉悦に満ちた雲雀の鳴き声。

 

 

なんだか極上の瞬間=永遠を満喫している感が、ある。

 

 

 

詩である。画である。

 

 

これはすでにある、まえからある、永遠のなかに陳列されている

 

ものを取り出す行為であろう。

 

 

 

木の中に、石のなかに、彫刻家は出してくれという声を聞いて作品を”取り出す”。

 

 

小説家は、”降りてきた文章を文字に記す”。

 

 

 

いや、自動筆記が世の驚異として語られるが、池田晶子さんはこうおっしゃった。

 

 

 

”何も不思議なものはない”。

 

 

UFOだ、幽霊だ。怪異現象だ。

 

 

 

なにが不思議なのですか。

 

 

こうしてこの世にたまたま”池田某”としてあること。

 

 

これ以上の不思議があるだろうか。

 

 

 

逆説的に聞こえるリスクをお分かりになりつつ、直截に池田さんはこうおっしゃった。

 

 

 

そしてまた池田さんは”世代のひとくくり”をひどく嫌われた。

 

 

”われらオウム世代”!?

 

 

私というものを深く真摯にいつも見つめているのであれば、

 

世代?ひとくくり??

 

 

そう思いたい心根、性根の弱さ卑屈さ狡さを憎まれた。

 

 

 

一人、ではない。そこにはすべて、があるのだろう。

 

 

 

そう思う”弱い心根”もまた。

 

 

”私”。

 

だからこその、喝。

 

 

 

某であった/ある池田さんが、その体で生まれられた世代がちょうどオウム所属メインメンバーと近かった、

 

 

ので、”オウム世代”としての意見を聞かれたのだった。

 

 

 

そして、今、コロナ。

 

 

”コロナ世代”。

 

 

オウム、は自らがオウム真理教信者ではなかったとしても、その経緯が多くの日本人の気持ちのなかにいやーな形で伝わった。

 

コロナは、そう、ほぼすべて、ほぼはいらないかもしれない、世界の全人にいやーな形で伝わっている。

 

 

 

これからさまざまに語られるであろう”コロナ以後”。

 

以後とはなにか。

 

 

果たして池田さんなら、どのようにおっしゃるだろうか。

 

 

と、ずっと、

 

 

 

 

考えている。

 

 

草枕

草枕