夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

音、とはなにか。

音。

 

生きていること。

 

 

これは今、昨日の鈴木大拙のことばでいえば”即今”。

 

 

すなわち、今、を実感できるものごとだと思った。

 

 

 

音はもちろん、たとえば擦過音だったりすれば

 

鳴る、原因はある。

 

 

死にいたるには、苦しみがあるのかもしれないが、

 

苦しみは死、そのものではない。

 

 

音も同じだ。

 

 

擦過音である、のかもしれないが、

 

 

出てきた音は。

 

ただ。音である。

 

 

 

早朝にさえずる鳥がいる。

 

 

どこかで、新しい空気を、

 

喜んで吸収して鳴いている、と読んだ。

 

 

 

本当かどうかはしらない。どうでもいい。

 

が、さえずる、鳥が、鳴き声が

 

 

音として耳に至るこの喜び。

 

 

音は音。瞬間にうまれ、永遠として聞こえる。

 

 

 

芭蕉が詠んだ句。古池や蛙とびこむ水の音

 

 

この音。蛙という存在のおかしさ、飛び込む姿の面白さ

 

 

こどものころはそこにひっぱられて、

 

 

いやあ俳諧っておもしろいやん

 

 

 

などど思っていたが。

 

 

 

音である。

 

 

 

鈴木大拙はこの”古池”を自然全般と解釈したと読んだことがあるが、

 

 

自然である、古池に、

 

愉快な存在である蛙(別に本人が愉快になりたいわけではないが)

 

がこう飛び込む。

 

 

ぼちゃん、か?

 

ちゃぽん、か?

 

 

そして擦過音という発生理由をへて、

 

 

ただその理由とははなれて

 

 

 

出る、音が。

 

 

 

 

それが永遠という名の、刹那に広がる。

 

 

その刹那を味わい尽くしているのが

 

 

このわたし、こと芭蕉である。

 

 

 

芭蕉はわたし、そしてあなた、であるのかもしれない。