夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

ああ無常。

アン・ルイスが好きだった。

で、タイトル。常、違い、ですが。



月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。

おくのほそ道、を芭蕉が辿った年齢は45歳、元禄二年、1689年の事であった。

3月末に江戸を出て、5月で平泉、8月に美濃大垣、ということなので半年の旅であった。

芭蕉は50歳で亡くなっている。貞享三年、1686年春、深川の芭蕉庵で

         古池や 蛙飛こむ 水のおと

と呟いたときに42歳。蕉風、と呼ばれる境地に開眼し、句作に邁進したのはわずか8年余りということだ。他人である僕がいま結果としての期間を見れば、短い、と思う。そうなのだろうか。

わが敬愛する池田晶子さんは、46歳で現世から離れられた。

最近は、自分の歳にこの人は何をやっていたのか、と思う。というより昔から気にしていた。だが、それは学校で無限に同級生と自らを比べ苛まれる、苛む心の動きと同じ、と観じてから、なるべく避けてきたことであった。

最近再開した。だが、”較べる”要素は残ってはいるが減り、この人の心の動き、成熟度、自己の生、もっと言えば"魂”のありようを感じ比べ、"人の振り見てわが振りなお”してみよう的な意味合いが深くなったように思う。

例えば、小林秀雄の対談集を読む。

小林は、僕の歳の時既に戦争を経験している。まして”あの”小林秀雄だ。比較などおこがましい、と対外的にはなるのだが、自己世界では自由なのだ。で、読む。どんな事を考えていたか。

1902年生まれの小林は、僕の父方の祖父より2歳若い。名文”無常といふ事”は昭和17年7月、1942年、40歳の時に発表している。
44歳でプラットホームから転落、名作”モオツァルト”を発表。
45歳で永年のテーマ、ランボオを書いた”ランボオⅢ”を発表、翌年には創元社取締役の就任、6月には鎌倉雪ノ下三九番地、通称"山の上の家”へ転居している。

そして48歳で既に第一期となる小林秀雄全集が刊行されている。

50歳の1952年12月、今日出海とヨーロッパへ出発、翌年7月アメリカ回りで帰国。半年以上の長い旅であった。翌年から"近代絵画”を連載開始。

ざっと40歳代からの仕事を見た。小林はこの後も充実した仕事をするわけだが、ここまででも素晴らしい仕事を行っている。

まして池田さんは。46歳までのあのお仕事の数々。

こうしてみてみると、40代で人は充実した仕事を為している。

1月10日、讀賣新聞特集”生”。
"65歳までの生涯労働時間(1日の労働時間を9時間と想定)と、65歳の人が85歳まで生きた場合の非睡眠時間は、いずれも10万時間になる”とのこと。つまり定年後の人生は就職後の勤務時間と同等にある、ということだ。

これは第二の就職、といえるかもしれない。

池田さん亡きあと、ひそかに池田さんの心を受け継ぐ方の一人と目す川上未映子さんが同欄に寄稿している。結婚していても子供を持つ事は考えられなかった池田さんだが、同様に”「生れてこなければ、そもそも悲しみもない。子どもは産まないほうがいい」と思っていた”とのこと。
しかし大震災を経験し、”「社会のメンバーを増やすことになる」”と決断、出産される。

「子どもの人生に併走づることで、自分の記憶には残っていないけれど確かにあった光景や感情を追体験できる」
「人は年を取って変わるものではなく、若い時の延長線上にある。その時々で自分が<幸せ>と感じるものを見つけることが大事だと思う」

年齢で人の心は変わらない。

これは日々実感されることだ。だから身体とのGAPに戸惑い、焦る。僕が"同じ年に小林秀雄はどうしていたのか”と思うことも焦りの一種なのかもしれない。川上さんに訊け、だ。時々の光景。時々の幸せ。

自分は、ここに、います。

ということかもしれない。焦りも、いい。ああ、無常。


小林秀雄 (新潮日本文学アルバム)

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直観を磨くもの: 小林秀雄対話集 (新潮文庫)

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