夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

年頭妄語。

2014年が始まった。

妙に昔の事を思い出す。いや、思い出とは過去の記憶を今の自分が好きなように、今に合ったように”思い出している”という形を取った今の思いである、ということをどこかで読んだ気がする。

時間が経つと昔の辛い記憶が美化される、もしくはその逆。

そういうことはあるだろう。だが年頭、年初というこのとても寒い時期が、なんとはなしに厳粛な思いと共に来し方と行く先をつらつらと考え思いを馳せること、そういう行為に合っている、ということは確かなようだ。そしてそれは、結構愉しいことであるようにも思う。
これが古人が言うところの、”一年の計は元旦にあり”というコトバの”知恵”の部分、なのかもしれない。


酒井駒子という絵本作家が好きだ。

まあ、言語化して何故好きか、ということは、絵を見る場合敢えて余りやらない。直感、触覚での触感を大事にしたいからだ。

まあ、"肌が合う”これはもう、基本人とは共有できぬものだ。

最近、いろんなことでそう思う。身近な人が同じものを好きになる。これはほとんど起こらない。残念な気もするが、仕方のないことなのかもしれない。

ぺりかん社、なるにはBOOKS139”絵本作家になるには”を図書館で手に取った。本を借りる気はあまりなかったが、返すときに新入本コーナで見つけた。基本的には、これから職業を選ぶ若い人向けの本だ。だが、絵本を読み、集めるのが好きなので、借りた。

絵本作家になるには (なるにはBOOKS)

絵本作家になるには (なるにはBOOKS)

本来自分向けでない本(=買うことがなさそうな本)にイレギュラーに接することが出来る、というのが図書館の良いところだ。

そしてそんな"ためしに借りてみる感”での本との出合いが、一生モノの本との出合いになったりする。よくこの欄で書いている、池田晶子さんとの出会いもそうであった。

酒井さんのことであった。

既に世界的な人気作家である酒井さんだが、絵本製作と接する態度がわかる貴重なインタビューが載っている。

絵を描くきっかけが、”顔”に興味があったことだと書いてある。目に星をちりばめたお姫さまの絵を友達に教えてもらって描いたり、仮面ライダーの絵を上手く描けた,かわいく描けた、というのが絵を意識したきっかけである、と。

10歳まで団地に住んでいた兵庫県生まれ、というところも、共通だ。年齢も近い。
"仮面ライダーの顔(+マフラー)を上手く描きたい”、これはいまでも強烈に思い出す、僕のほとんど初めての"心の中から出てきた希望”であったのだ。ほとんど顔を描く、だけでよかった。顔以外はどうでもよかった。

この拘りはなんなのだろう。

その拘りは、その後パーツに分かれた。目を描きたい、鼻を描きたい、口を、描きたい。鼻や口、ばかりを描いていた時期があった。

鼻と口の横顔は、手塚治虫が先生であった。なぜか、鼻の下がない。描きまくった。鼻と口がある程度描けたら、その後は眼に移った。”眼”を描くのは難しい。だから、愉しい。人によって様々な、解釈が、テクニックが、流儀が、あった。未だにこれ、というところには至らない。

マンガから来ていた僕は、在る時期できるだけ眼をシンプルにしよう、とした時期もあった。試行錯誤が、愉しいのだ。


同書から、酒井さんのコメントを、引く。(P.109)

”けれど、絵本は、四角い、小さな机に載るぐらいの世界ですよね。(中略)絵本って、かなり大きな世界があの小さなかたちの中に入っていて・・・たぶん私は、大きい場所を支配するような力はあまり持っていないけれど、この机に載るくらいの大きさのところに無限の広がり、大きい世界をつくる、ということには向いているんじゃないかなと思います”

自分に合った世界を、自分にあった方法で作る。

ひとはすべて”自分の王国”の王になりたいんだと思う。
で、そのことは、別にあつかましくも、だいそれてもおらず、当たり前のことである。
(でもみんなあんまり言わないことに、なってはいる。ココロの、中で、人知れず、でも強烈に、思うこと)

そんなことを酒井さんの言葉から考えさせてもらった。

そして、改めて自分も自分の世界、というものに、拘って、それを自分で納得の行く方法で、追究してゆきたい。



なんだかコドモのような夢であるが、そのことを、正月冒頭の、わたくしめの目標、ということに、させて頂きます(なんだか妙に、句読点が、多くなってて、すみません)。



本年も、どうぞよろしく、お願い申し上げます。