夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

”モテ”と"カースト”。

えー、最近少し気になって考えていることば。

”モテ”と””カースト”。

どちらも、余り読後感ならぬ、聴後感(?)が良くないコトバだ。ドクサ、ついている言葉かもしれない。

どちらも、人間関係をどうこうしよう、という言葉である。人間関係がどうこうなる、という言葉でもある。

能動的要素、受容的要素、どちらも含まれている。

なんというか、"運命感”の要素も”ドクサ付き(??)"されていて、聞いたはなから、”ああ、その人固有の運命ね”といった感傷も少し湧き出る気がする。

そんな言葉だ。

自分の”ウンメイ”をどうこうしてくる、魔力をもった要素を示す言葉、といえるのかもしれない。

人は”モテ”や”カースト”に意識しないと、いや相当意識しないと、絡み取られる。そう、意識的に、あるべきなのだ。


”モテ”とは何か。省略され、名詞化したそれはつまり"もてること”の意である。こうして省略化されていることが既に、この語のドクサ的立ち位置を示している。”モテキ”という。一生で3回、人には”モテキ”がやってくる、という。

この"3回”というのが、クセモノだ。一回というと、2回というと、なんというかリカバリーできない気がする。4回5回は中途半端。3回というのが、一番”しっくりくる”。

人生で3回は大変な危機がある。一生で3回はビッグチャンスがある。これもどこかで聞いた言葉だ。で、結構その場を乗り切るための知恵を感じる言葉でもある。そうか、今を大事に。次の機会のために学ぶぞ。次は失敗しないぞ。

ちょっとドクサ的と思うところは、通常の"モテ”が受身であることだ。なんだかわからないが(異性に)もてる。特にいつもの自分だけど。ちょっと本当の自分が買いかぶられている感がある。だから”モテ”はどこかで終了する。そう、モテ、とは”モテなくなる時期がくる事”とセットになった言葉なのだ、そこが、むなしく感じる一因かもしれない。

本来の自分以上に見られている?=ばれたらもてなくなる心配あり?

いや、もちろん”モテ”てそのまま上手くいく、ということもあるわけである。でも3回くる、といった時点で"おさとが知れる””底が見える”ことが想定されているわけであり。

”希望”と"期待”について2回前に書いた。そこで気づきを頂いた。"希望”は主体的でありうる。人に"希望”するだけではない"希望”がある。
たぶんこの”モテ”もそうだ。”なんだかしれないが、いつもと同じ自分が突然評価される”という外的要素をいいすぎるのだ。そうではない”モテ”、能動的、意識的”モテ”はあるだろう。それは人のためではない"自足”、自尊といってもいいところを目指すことではないだろうか。

そう、"自らの魂を磨く”。

ソクラテスのいった、"魂の世話”というやつですね、たぶん。

それを行うことで、"モテたい”から離脱しつつ、人との関係は自らのスタンスに沿って、なるようになる。

それが真の”モテ”ではないだろうか。

カーストもしかり、モテもしかり。学校や会社での人間関係は結構濃密であるがゆえにきしみが出る。だが、それは仕方がない。その中でしっかりとした自己を持ちたいと思い、想うこと。

いうは易く、行なうは難し、の典型かもしれないが。

まあ、本当は一人で職人のように"機を織り”、それを市場に持ってゆけば"高値がつき”、という鶴女房的な生活が、理想なんですけどね。。それは池田さんの”あら、わかっちゃった、あとは単に生きるだけ”という立ち位置と通じているかもしれない。

。。だが、”モテモテ”や”ラブラブ”の"冷やかし的お祝い語感”は、実は結構個人的には好きだったりする。。

やはり結構、僕自身も"絡み取られて”いるようだ。


えー、”カースト”について。そも語源たるかのインドの”カースト制”、今はどうならうかは知らないが、僕が学生の頃は世界史で、”バラモン、クシャトリア、バイシャ、スードラ”と習った気がする(自信ありませんが)。
そしてその下にカースト外で”アンタッチャブル(不可触賎民)”がある、と教えられた。

いや、今は多分そんな言葉は使わないのだろうが、この”アンタッチャブル”、英語もわからない中学生だったが、なんとも救いのない言葉だ。この制度の途方もない暗黒性を覗き見た感がした。


今、"女子カースト”や”学校カースト”というようだ。どちらも、良い語感は、ない、というか、嫌な語感を与えるためにある、そう感じることがセットとして機能する語だ。
中学生の僕が感じた"悪意のある暗黒性”、これがもれなくついてくる。


で、人はその語の”ドクサ的”というか”カルマ的”(うーん、カルマって何か、というのはありますが)語感に反応する。

世で”流行語”となることばの一定数はこうした構図が成り立っている気がする、っていうのは"モテ”でも言ったのだが。

"人のことは気にするな”。

子供の時母親に言われた言葉である。妙に、というか。ずっと、心に残っている。

ありがたい、言葉だったと思う。言った人の、魂を見た気がする。自分の親はそういう人なのだ。それでいまこうして"母親”として目の前にある。そして自分の"魂”に言葉を呉れる。

そのときは思わなかったが、今思えばそんなことを感じたようだ。

ありがたい。

まあ、それはおいておいて、カースト。他人より自分が上である、と認識することによる安心感を求める行為=カースト付け、であろう。そうしないと、安心しない心であることを、漏れなく示す言葉である。関係性の、嫌な部分をはだけて、露悪的に露出させる感がある。

カーストは関係性で上下する、変わる。あの女より私はいい。あるいは悪い。あいつには勝っている。

そんな格付けは実は生物としての生存本能に由来するのかもしれない。”ヨリヨイシソンヲノコセ”。

その事に意識的であり、能動的であるべし。

うーん、ちょっとカーストについては消化不良か。また少し考えて行くこととしたい。