生きながら死人となりてなりはてて
思いのままにするわざぞよき
至道無難禅師 臨済宗(1603-1676)
鈴木大拙(本名貞太郎)が折に触れ引用された言葉という。
この言葉を聞いて思い出したのは池田晶子さんのことば。
死とはなにか、を正面から見据えて問われ続けた池田さんのことばだ。
これらの人たちの意識は繋がっている。
禅を通じて、人は禅定に入ることがある。
というか、禅はその境地、理解に畢竟到達しようとする試みといっていい。
だから、
鈴木大拙の言葉を読んで、池田さんを思い出す。
池田さんのことばを読んで、仏陀を、竜樹を思い出す。
仏陀、とは人であった。遊行し、80を過ぎるまで人に伝え続けた。
なにを伝えたかったのか。
伝えるのがむつかしい、とはじめ仏陀は戸惑ったという。人は我が境地を理解すまい。
だが、伝えることとした。その後は、齢八十を超えてなお、行き倒れるまで伝えた。
"布教”ではない。教えを伝えるのではない。
理解を、境地を、共有しようとされたのだ。
鈴木大拙もそのような人であった。米国で、禅の、いや、事実を伝えた。
池田晶子さんもそのような人であった。”あ、わかっちゃった”そのあとはただ生きていればいい。
だが”なんかくやしい”。
そう思われて、様々な場で伝えられた。
その根底には、
同じ理解があったように思う。
宗教、というと誤解される。ひとびとを集めたいわけではない。
宗派として立ちたいわけではない。
教祖となったらおしまいだ、とつねづね池田さんは書かれた。
だが、宗教には詳しい、とも。”私ほど宗教に詳しい人間はいない”。
それはなぜか。
根っこが、底に流れるものが、同じだったからだろう。
鈴木大拙は、”即今”ということも言っている。
今だけ。
すなわち、今。
今の前に今はなく、今の後にも今はない。
つまり、
”過去”も”未来”も”私もあなた”も、
認識も主観も客観もない。
ああ、そういうものの中で過ごす”世界”はあるのかもしれない。
そこは、そうありたいと、意識が、エゴが、”あなた”が思うだけ。
あって、なきがごとし。
なくて、あるがごとし。
二つは同じ一つだ。
死と生も同じこと。
生きて死ぬこと、
死んで、生きること。
池田さんは言った。
一度死んで、戻ってきて生きる。
比喩のようで、比喩だけではない。
四聖とは、
行って、戻ってきた人たちだとおっしゃった。
“行く”とは???
つまりは”死んでみること”。
そして”この世に還ってくる”。
肉体と精神はその時は”レベル違い”の話だ。
死んで肉体はどうなるのか。
死んだら肉体に戻れるのか。
ああ、その問いはしてもいい。してもいいが、レベルの違いがあるといえばある。
別にいい。
したいこと、が起きたこと。
したくなくなれば、それもまた、起きること。
今に。
ただ今に。
即今。
ありゃ?
鈴木大拙本、で検索したら、もうすぐなんだかよさそうな本が!
予約注文、してしまった。。
そして、
池田さんの
珠玉の本たち。