タモリの名言、”仕事じゃないんだ、真面目にやれ!!”が逆張り的に面白くて好きな言葉だ、などと書いてきたが、本日森博嗣氏の新書「ジャイロモノレール」を読んでいてタモリ氏の言葉はもっと深いのではないか、と思えてきた。
この日本、人は従事している仕事の内容で判断される面が強い。仕事に貴賤はない、というが、仕事内容で人となりまで判断される場合がほとんどであると、森さんは書かれている。だが、イギリスへ目を向けると、貴族は(少なくとも昔の貴族は)仕事をすることは貧しさのしるしであったという。つまり、仕事でどのような人かと判断されることはない、ということである。
全ての人が、仕事をするべきだ、という思い込みが私の中ではあるようだ。仕事をしない者は怠け者だ、という糾弾の気持ちもどうやら秘めているようだ。逆に言えば”仕事をしているのだ、邪魔するな”という言い方もできるのだ。
この議論にはもちろん恒産というか、日々の暮らしを続けるための資産保有如何が問題となる。戦争を経て、日本は全体的に文化が中断し、いろいろなものがリセットされたのだろう、と認識している(森さんも書かれている).
今の日本で、貴族はいない。かのイギリスでも、よくテレビなどで見る限りは、英国貴族や王族も、その資産の管理や税金納入で苦労している、というイメージもあるが。だが”文化”の中断は無かったと言えるのだろう。
定年、あるいは雇用延長が終れば、サラリーマンは仕事がなくなる。そのあとの時間、なにをしたらいいのか、という悩みに皆さんあるようだ。私もある。そこで出てくるのが”趣味”。だが森氏は書く。日本における趣味とはあくまで暇つぶし、娯楽、時間があまって仕方なくやるものである、と。
初めは面白くとも、飽きる。飽きて次々に新しい”趣味=暇つぶし”を探し消費する。結局はむなしくなり、また仕事に戻る、ということがだいぶ多そうだ。
折角生まれて初めて自分の時間を持てたのだ。仕事を通じて社会貢献(直接に社会と面していなくとも、税金を払うことでも貢献している)をしてきたので、自分の為に時間を使い、自分を喜ばせよう、と説かれる。
日本に於ける暇つぶしの意味の趣味ではなく、ここで氏は趣味(Hobby)を”個人研究”と読み替え、自分だけの新しいテーマを見つけて、従来の先人の成果を調べる勉強や参照ではない、自分だけの価値を追求する”研究”を勧められるのである。
こうして考え方を整理して、指摘していただくことは、いままで知らず知らず”日本で働く”中でしみ込んでいる考え方を改めて見直し、考えさせて頂く機会となる。
大変、ありがたいと感じた。まさに、本を読ませて頂く価値、である。真実・事実を分かりやすく伝える、という理系教官であった森氏の手腕も実感する。
タモリの言葉を聞いて、私は”仕事は真面目にやらなければならない”と思い込んでいることからのおかしみを感じていた。だが、タモリの言葉の意味は、本当にそうなのか?はたして仕事以外の時間は、すべて無駄、時間つぶし、余暇、なのだろうか。
仕事以外の時間の重要性、自らにとって大切でエッセンシャルな行動をやるための時間であること、を示そうとされているのではないだろうか。
仕事をすることは、これまたよく書いている言葉、チャップリンの”愛と勇気とサムマネー”のサムマネーを得るために(恒産を持つもの以外)必要である。だが、”サム”なのだ。これは必要十分、の意味であろう。
生きるための手段が、目的となってしまう。金儲けが手段ではなく目的となる。よくあることだ。長い時間、身を粉にして働けば、疲れて本来の意味を忘れてしまっても仕方ない。サムマネーを得た後は、愛と勇気で生きてゆくのだ。
忘れたら、思いだす。あるいは新しく考える。
真の創作は全てがオリジナルでなければ、という、これも特に根拠のない思い込みを私は持っていた。だがたぶんそうではない。先人の努力と結果を参照し、その手段を足掛かりにさせていただき、そこから自身の新しさを見つけてゆく。
殆どの創作は、そのようにして生まれているはずだ。
デューラーの時代、20歳になる前に職人や画家はイタリアなど本場の芸術や文化に触れて学ぶ時間を持ったという。いまでいう”モラトリアム”の時間であろう。日本でモラトリアムというと、なんとなくさぼり、無駄、ボンボン、というような言葉が浮かんでくるが、素晴らしい芸術家はこのような期間、先人の技に触れ、模写などを経て自らの表現を見つけていったのである。そして世間では、よき表現の為にはそうした一見無駄な時間がどうしても必要である、という理解もあったのだろう。
いままさに、家族や子供の為、そして自らの為に働くことがメインであるのなら、将来の私的研究の為の準備(資料の蓄積等)をしておけ、と森氏は説く。時間がなければ、将来の時間に投資する。
素晴らしい森氏の助言をかみしめて、自分はではどうすべきか、ということを考えてゆきたいと思った。
(自らの中にやりたいことの萌芽あり、それを見つめて実施せよ、と森さんはおっしゃってますね)