- 作者: 筒井賢治
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2004/10/09
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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この本を読んでいる。
非常に、わかりやすい。
なんとなく知られてはいるが、異端と悪魔的イメージでよくわからない”グノーシス”というものに関する情報が、読みやすく纏められた本だと思う。
グノーシスや禅の肝は、個人個人の中に神に属する霊性、あるいは神性が、含まれている、とするところであると個人的には思っている。
今までに本ブログでも述べてきたように記憶するが、例えば現在のキリスト教の主流派ではあくまで個人と神は別物で、個人の魂は神に救われるべきものである、とみなしていると理解している。
で、どちらがいいですか、と言われれば、自分の中に神の一部がある、とするほうが、神はあくまで自分の外にある、とするより魅力的な考え方であるが故に、将来的には主流派としては、信徒をすべて持って行かれる、というリスクが高い。
だから異端とし、迫害した。
その教義をある意味曲解し、信徒を抹殺した。
そういう理解だ。
敢えて日本に来て禅を選んだ欧州のひとが、若い時にグノーシスを知っていたらわざわざ日本に来なかった、と呟いていたのが妙に心に残っているが(いやあ、日本的なものが本質的には面倒なんですね)、まあ、それは禅とグノーシスが本質的に陸続きであることを示してもいるように思う。
ということは、例えば禅の知識を受け入れている日本人は、本質的にグノーシス教徒、のようなものである、とも言えるのかもしれない。
この世にあって、死を迎え、死で神の一部として還ってゆく。
こんな意識があると、人生というものはだいぶん楽かもしれない。
まあ、こんなことを考えさせてくれる、なかなかに興味深い思想としてグノーシスを理解しているわけである。
今回気になった箇所にモーツァルト作「アウェ・ウェールム・コルプス」(Ave verum corpus,K618)に関する記載がある。(P.116)
合唱宗教曲であり、歌詞のテキストはカトリック・キリスト教会の「聖餐式」「聖体拝領式」の為のテキストから取られているという。
実はこの曲は意味もわからないままに自分のIPHONEに入れており、リピートで聞き続ける、ということも多かったため、その曲の意味と成り立ちをここで知ることができてすこし感慨深かったのもある。
意味を引用しておく。
あなたは人間のために十字架にかけられ、まことに苦しみ、いけにえにされ、その脇腹は突き刺され、水と血がそこから流れ出ました。死の試練として、あなたをあらかじめ私たちに味わわせてください。(筆者 筒井賢治氏私訳)
聖餐式のテキストであるので、Ave=挨拶のことば に続いて”verum corpus"=まことの身体 に対する呼びかけになっている。
キリストは仮に現れたものであり、つまりは”人間に死んでみせて理解させる”ために十字架に架けられた、とする考えがある。つまりはある意味”演技”であり、その死はいわば”演じられたもの”、本当に苦しんではいないものだ、というものである。
それに対し、十字架に架けられたキリストは、本当に人間の身体を持っていたのであり、人間と同じ苦しみを得てますよ、安心してください、”狡くないですよ”というのが正統派の立場となるだろう。
だから”まことの”という巻頭語が敢えて必要となるのである。
ここではどちらが真である、ということを論じるつもりもない。どちらの説が、”仕組み・組織としての教会組織”に有用であるか、という要素がある時点で、”宗教”としての信仰の限界を感じるのみである。
やはり、そうしたものから離れて考えるべきである、という風に思っている。
まあ、そうではあるのだが。
こうしたさまざまな要素から長い年月を経てきた”宗教”というものの歴史的経緯を見ることは、知識としては面白いものがある。
グノーシスはそうしたことを考えさせてくれる、気の利いた切り口の一つ、という意味もありそうである。