夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

神と無限。

神とはなにか。

アリストテレスの定義。

アリストテレスが、無際限の過程としての「仮無限」と区別し、数学においてそれを論じることを禁じた一個の確定した存在者としての「実無限」は、中世の神学体系においては「神」の別称であった。

 池田晶子「最後からひとりめの読者による「埴谷雄高」論」P.31

神を信じるのか、というアンケートが日本や世界で行われることはよくあるのだろう。日本における神道には、いわゆるキリスト教の聖書にあたるもの、仏典にあたるものはなく、厳密な意味での具現化もないと理解する。雰囲気や気配、のようなもの、頼んだのでなく今この世にあり、抗うすべなく程なく退席する”この世での生”を見つめたとき、嘆息のように現れる奇妙な諦念にもにたもの。信じる、ではなく、”考える”の徒としての者が、それでいて?対峙する宇宙・生・死。対峙することこそが”神”なのであろうか。呆然として対峙することが、”神との対話”なのであろうか。

アンケートではそのあたりの機微が拾いきれない。神、といったときの白髪の老人、的なもの、賢者、といったものがどこかで世界を見つめている図、それを”単純に”あなた信じてますか?と聞かれている気がする。特に子供とかは。そうではないだろう。まずここで聞く神とはなにを指すのか、の定義がいるのではないか。わかっているけど定義なぞは不可能だ。そういうことなのかもしれない。しかしそうではあっても、人に神を聞く時には、”それはどんな神ですか?”とあわせて聞くのが礼儀なのではないだろうか。

無限、はある。あるものは無限なのか、ということではなく、状態として考えられる。では考えたその無限には果てがあるのだろうか。そのあたりの問いと、神というものの存在を考えたときの”?”が近いと感じる。だからアリストテレスの言葉には真実のしっぽが含まれていると感じるのかもしれない。

白髪の老人”はいない。しかし、仏陀にしろキリストにしろ自ら著書を著さなかったこと。そのことから”書き記せないが、そう考えざるをえないもの””ある状態”を伝えたい、という意思があったことを知ると、この神ではないあの”神”あるいは”神状態”が考えられるべきであろう、という風に今の僕は考えている。

これを”神を信じているのですか?”というアンケートを目の前にした時になんと答えるべきか。単純化できない。留保を付加する。そういいつつも”然り”と書くべきなのかもしれない。

日本では”お前はキリスト教の家庭に生まれたろ!””イスラムの子はイスラムだ”といった外圧はあまり無い。その部分はいいと思う。八百万、全てのものに魂があり、仏性がある。そんな考えが一神教では冒涜的とされると聞くと、なおさらだ。グノーシスでは全ての人間は神の一部であると説く。そこがすなわち、一神教と合わず異端とされたと理解する。つまり自らを誇ることができるより魅力的な考え方である、ということを逆説的に示しているのだろう。敢えて禅者となった欧米人が、早くにグノーシスを知っていれば禅者にはならずともよかった、と言ったと聞いたときにわかった。日本に来て苦労したんだなあ、ということは置いといても、自らのなかに仏性がある、と信じることが、一神教では魅力的すぎて、教会が不要すぎて、駄目なのだ。

仏性といってもよい、自らが摂理の一部であるとしてもよい、八百万といってもよい。自らがおおきな意味で”この世”のなかにどうしようもなく”生”と”死”を超えて組み込まれている、この感覚が宗教的であり、神、という状態をもし示していると考えるのであれば、僕は神を信じている、ということになるのかもしれない。

しかしそこには祭壇はない。「信じる」もない。ただ考えるのみ。池田さんは”教祖として祭られれば敗北だ”と書かれた。ぎりぎりのところを示している、との自覚をお持ちだった故と理解する。ちょっと、”崇めたく”なる部分も、確かにある。

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1万年後の人類、というものを考えることはなかなかない。池田さんでさえ、1000年、2000年後の人類に向けて書いてらっしゃったと理解する。そういう”規格外”の時間を否応なく考えさせられると、すこし”ショックを受ける”。

放射性廃棄物から1万年にわたり放射線が出る、という話である。端的に”コントロール不可能である”と感じる。人類、のコントロールを外れたもの。

1万年、という時間を考えたことがなかった。過去に対しては、当然ある。恐竜がいたな、ジュラ期だ白亜紀だ、ティラノサウルスアロサウルスはどちらが強かったのかな。カブトとクワガタの比較、あるいはライオンとトラ、海ではシャチとホオジロザメ。そんなお気楽な比較をして楽しんだものだ。しかし、将来。アトムにしろドラえもんにしろ1万年先は全く考えていない。個人的には”考えたことすらない”。ショックをもって突きつけられた。

1万年後、そも人類はあるのか。宇宙人がやってきて”忌諱の地、触るべからず”のメッセージをきちんと把握できるのか?これではまるで”失われたアーク”インディジョーンズの世界の話だ。それが、あとに禍根を残すものとしての当事者に、人類はなったのだ。

アトランティスムー大陸、といったトンデモ世界と陸続きとなってしまった。正にギリシャ神話の”神の火”。そんな発想がとめどなく出てくる。類型的な紋切り型の発想だろう。しかし。

手に余る、という感がつまり、当事者感の喪失を生むだろう。人がそう思っても最早しかたないレベルだ、誰が他人を本当の意味で糾弾できよう、”このひと1万年後の子孫のことちゃんと考えてません!”。

そうであればやはり、ここで考えるべきはひとつ、”善く生きるために考える”。”魂の世話”。それしかないだろう。

真の意味での”哲学教育””哲人政治”が必要な時代に、なってきたのではないだろうか。