夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

最近の頭の中から。

フィルタリング、という考え方がある。

詩にしろ、小説にしろ、思想にしろ、その時代にもてはやされているものが、次の時代に同じように受け入れられ、知られ続けるわけではないということだ。

この考えかたは、ウンベルト・エーコジャン=クロード・カリエールの著書”もうすぐ絶滅するという紙の書物について”にて読んだものだ。

もうすぐ絶滅するという紙の書物について

もうすぐ絶滅するという紙の書物について

古典、と呼ばれるものは、少なくともこの過程を経て来ている。国語や歴史で教えられるが故に、読むことが損なように思っていた”名作”の数々も、読んでみるとその理由がしみじみと実感され、”ああ、勉強のためなどと書かれていなければ読んだものを”と深くため息をつくわけだが(例:ヘルマン・ヘッセデミアン”等)、しかし考えて見ればこうして教えられなければ知りもしていないわけだから、それはそれでありがたかったともいえる。”教養”に血道をあげ、世間から隔絶することが出世するための逆説的な条件であった旧制高校時代が、教養を無理やりでも頭に詰め込む、という幸せな時代をもつ、という面ではうらやましい部分もあると思う。しかしそこで要は”ひとに負けじと”読んだ本が血肉になるかどうかは、残酷な選別によるのであろうが。

そんなことを思ったのは、最近池田晶子さんの文章が、数冊の本となったのを見たからだ。旧四谷ラウンドで出た”考えるための教科書”、これはたしか”言葉が等価交換できる”という島田雅彦氏の言葉?の項に反論し、部分を執筆する著者たるもの、全体を通して中学生に責任をもたねばならぬ、とおっしゃり、島田氏に反論され、結局寄稿、という形にされたものだと記憶する。伝える、ということに正に”覚悟が違う”池田さんの凄みを感じる部分である。
そしてそのことが”えい、一部をひとに任せようと思ったことが間違いだったわい”ということで名著”14歳からの哲学”を生んだ原動力ともなったと理解している(うーん、ちょっとここ自信がありません。もしかすると14歳からの哲学のほうが早かったかも)。そういう意味では島田雅彦氏は14歳の哲学を生んだ(反語的な)父親、とも言えるのかもしれない。

いずれにせよ、自身の書かれた部分を否定されたわけではないので、こうして再度文庫の形で世に問われるのは良いことだろう。

そしてもう一冊、というか2冊。あすなろ書房の”哲学”シリーズにも池田さんの名前が見える。こちらも前述の書と似た形で、アンソロジーともいう形である。これも、中学生までに読みたい、と銘打っており、その部分でもコンセプトは共通する。しかしテーマからして、本来は池田さんの真骨頂というか、全部池田さんでいいんではないの?といいたくなる。”死をみつめて”である。かえすがえすも、もし池田さんご存命であればこのテーマ、必ず”私に書かせなさい”とおっしゃっていたように思う。もう一冊も”はじける知恵”である。知識ではない、知恵を持て、自ら考えよ、とおっしゃり、”考えることに、手遅れはない”。しかし嗚呼、池田さんはこの世には今はなく、魂は無辺にあまねくこの世をあるいはごらんになっているかもしれないが、(ちょっとこの言い方は宗教がかってしまうが、”宗教”も全て俯瞰されていた池田さんであればそこも問題ないであろうが)まあとにかく昔かかれた珠玉の文章群のなかから選ばれてくるのだろう。

ここまで書いてはたと気づいた。両書とも現物を確認していない。もしかしたら今までどの本にも載せられていなかった文章かもしれないではないか。タイトル”無いものを教えようとしても””「哲学」ではない、だからこそ力に満ち”。このタイトル二つを読むだけでも池田さんが伝えたいことがビシビシと伝わってくるではないか。中学生までの小さい人たちが、池田さんの文章を読むとき、これはなんだ、小学生ながらドクサに満ちた”食べるために生きる”の世界が、”あれ?”と客観的に見えることがあるに違いない。なにか気になる。そしてその人たちはそのことを契機として池田さんの著作群に分け入ることがあるのかもしれない。これこそがまさに”フィルタリング”であろう。

何回もこのブログでは書いているような気もするが、池田さんは2000年後の人類に向けて言葉を発せられていた。プラトンが、ソクラテスがそうであるように(彼らが意識していたかどうかは別にしても)。

フィルタリング?何それ?
伝わるものは、伝わります。

そんな池田さんの声が聞こえたような気がした。

6死をみつめて (中学生までに読んでおきたい哲学)

6死をみつめて (中学生までに読んでおきたい哲学)

8はじける知恵 (中学生までに読んでおきたい哲学)

8はじける知恵 (中学生までに読んでおきたい哲学)

まあ、その意識が既に”フィルタリング”であったのかもしれない。

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唯一の情報源が新聞である、とまでは言わないが、結構な部分そうである。というか、情報を取るのに疲れている。そんなにもいらない。しかし、ああ、そういうことになっているのか、という気づきも(ある程度は)必要だとも思っている。昔は朝日新聞であり、今は読売新聞。子供の頃から政治が大嫌いで、経済や社説には興味がなく、主に文化欄や書評を読むために読んできた。どうしても朝日の説教臭さに耐えられず、大人になってからは読売にした。こちらはそれほどでもない。

気に入っているのは編集委員2名の記名記事。記者で記名するのであるから、新聞社では相当な地位にいらっしゃるのであろう。編集委員、というと池田晶子さんの父君を思い出すが。

そんな2名のうちのひとりである芥川喜好氏の月イチ連載記事が”時の余白に”。美術の記者が長かったと読んだ記憶があるが、美術を切り口にした文章が気に入っている(不肖私も中・高時代は美術部で漫画を描いていたこともあり)。もうひとりは橋本五郎氏。こちらは政治家とは、といった視点で気付かされることが多い。過去では小泉今日子氏との新春会談が思いだされる(そういえば昔読売?で池田さんが新春会談に出られた、というご本人の記事を読んだ気がする。この辺りの文章は、やはり全集が出てこないと読めないような気がする。”わたくし、つまりNobody”様、是非企画をお願いしたい)。

とまあ、記憶の寄り道はさておいて、4月終わりの”時の余白に”にいいことが書いてあった。以下引用。

”人生において善きものはいい職人です。そしていい職人の作り出すものです。
満ちは違っても、いい職人にはあこがれます。職人仕事は、人を支配することも、人を支配することもない、自立した価値の世界です。ひたすら、もの作りに打ちこめばいい。その精度を上げることに励めばいい。
一日が終われば、うまい酒を飲んで休む。ひっそりと生きられる。誰におべんちゃらを言うこともない。無口でいい。つまり政治をやらなくていい。上等な人生です。”

この文章を読んだとき、あっと思った。小学生の時、”将来なりたいもの”と言われたときに答えるべきことがここにあった。この歳にしてそいつに出あった、と。

そしてこうも思った。夢をもつのに、遅いということはありません。これも読売の三浦雄一郎氏の文章で見つけた言葉である。”まずは心のスイッチを入れることです”。(4月30日版、私の履歴書 より)

いまからでも遅くない、自分も職人たりたい、と思った。