夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

薔薇十字団。魔法と錬金術と化学のあいだ。

図書館で薔薇十字団の基本図書と言われるアンドレーエ作、種村季弘訳、1993年刊行、2002年復旧版刊行された「化学の結婚」を借りてきた。

語感としての「化学」は、いまの時代であれば奇妙に聞こえる。無味乾燥な元素記号暗記科目、としてしか私のなかでは認識していないからだ。

だが、1586年生まれのアンドレーエにとっての「化学」とは、錬金術のことである。化学とは錬金術、この世のくびきから人を軽やかに解き放つ可能性のある、素晴らしい学問としての「錬金術」のことなのである。

錬金術、というものに昔から興味がある。ニアリーイコールで「魔法」となるが、それよりもより身近で実際に探求すべきもの、かつてあった学問体系、と認識しているからだ。

魔法や錬金術の発達には、やはりキリスト教の存在が大きいように思う。死後の世界、霊界、といったものへのあくがれを込めたアプローチ、肉薄、のことである。

中華世界やここ日本でも、幻術と言えばやはり死者や霊魂、といったものと関わるといっていいであろう。仏教や神道に関わる加持祈祷、といったものもやはり宗教との関連を感じるところだ。

個人的な魔法との邂逅は、やはりディズニーであろう。「魔法使いの弟子」での箒のダンスなどを想起するが、あのあたりから大きく魔法使い、魔女、といったイメージを貰ったように思う。フルアニメのあの躍動感と相まって、いきいきとした魔法、というもののビジョンを貰ったと思っている。

西洋では文化や歴史としての魔女狩りや、ワルプルギスの夜、といったイメージ、ロマやサーカスでの見世物、といったイメージが混淆し、決して魔術というものが単純に素晴らしく賛美すべきもの、という感じはないのかもしれない。ここ日本では輸入された概念としてクリスマスなどと同様、「魔法」とは驚きに溢れた「白魔術」とニアリーイコールのイメージであるように思っている。魔女の宅急便、あたりの童話やアニメを想起しても、そもそも魔法に対する禁忌の感覚は日本人にはほとんどないのではないだろうか。

これは多分、八百万の神を奉じる汎神論に親しんできた文化もあると思う。西洋は基本一神教、奇跡を真に起こすことができるのはキリストのみ、見た目奇跡であっても、偽キリストが行う行為は悪魔の行為、といった厳しい区別があるのだろうから。だが、ここ日本、あの神にこの神、すべて神は神であり、奇跡を行うかもしれないのだ。

だが、たぶん日本には同じ文脈で「一神教」に対するアレルギーもあるように思う。一神教というよりも、我のみを信じ他を信じることを断じてゆるさぬ、という感じへのアレルギーとでもいおうか。

いや、やおよろずですよ。仏さまですよ。菩薩は修行して仏となるのですよ。そして死者も仏となるのですよ。神仏、ということばをみても、そもそも違う宗教のトップが並んで熟語化している始末である。

そんな世界観のなかで、「我のみを信じよ」というドクマが率先して選択されるとはなかなか考えにくいような気がしている。

そんななかでの「錬金術」。

自由に、よき「生きるためのよすが」とならざるを得ない。いい、意味で。

私は「鋼の錬金術師」は結構いい感じで錬金術を取り込んでいる作品だと思っており、好きであるが、まあ、あんな感じ。錬金術とスポコンの、錬金術を操るいわば「高校球児」たちの物語、として読んでいる。

そしてそれが、大好きなのだ。

(ハリポタや指輪物語等、西洋でのファンタジーからのアプローチは、別の意味で魔術を肯定的に扱っている気も、しています)