夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

カレールー初使用、と一神教的神秘主義。

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今日の体重64.8kg、体脂肪11.4%、昨日帰宅時は同体重、体脂肪8.9%。
歩いたあとだと筋肉認定が上がるのだろうか。

さて、最近はすっかり節約モードであるが、白米を炊いたこと、カレーが食べたいこと、安く食べるにはレトルトがいいのでは、ということを昨日考えて、いつもの「まいばすけっと」に行ってみた。

いろいろ見ていたが、トップバリュブランドの89円(税抜き)のレトルトカレーを発見、これは安いぞと一旦カゴに入れたのだが、一応ルーの方もみてみた。

するとこちらもトップバリュブランドで、SB食品の子会社が作っているらしいルーがあり、こちらは税抜き98円であった。見てみると8食分とあり、税込み106円とすると1食あたり実額13円ちょっとでルーが入手できる計算だ。

あと料理が面倒だな、となるのだが、電子レンジでも調理できるとある。

ということで、これを買ってみた。

全く具を入れないのもなんなので、冷凍カボチャと冷凍ブロッコリーとゴマとワカメを入れて水を入れて電子レンジで合計9分入れるとできた。

ちょっと水がなくなってドライカレーっぽくなったのだが、なにしろ13円である。そして野菜であれば電子レンジでAGE化は少ないと思うし、具も入っている。

ということで、安くて特に美味ではないが、工夫したカレーを食べられたのは、昨日のおおきなあたらしいことへの挑戦の成果であったと思っている。

 


イスラーム哲学のいわゆる「マラクート」(malakut)「天使的世界」に当たります。
P.248 意味の深みへ 井筒俊彦
神秘主義、というものには、それがどの文化、どの宗教と対峙しているかによっておのずから違った切り口と結果となるものだ、と井筒さんはおっしゃる。

私は仏教には詳しくないのだが、いわゆる大乗仏教、特に禅仏教は、いわば「無神論的」というべき思想があるという。確かに寺院では仏は祀られているようであるが、その問答や教義をすこしかじったりすると、「こうなのだから仏を信じろ!」という圧がなく(あるいは少なく)、自らを深く掘ってそこで自分、あるいは仏と出会え、といわれている気がするのだ。

もともとがそうであれば、ある程度は自由に考えられるだろう。勿論、「悟り」という境地は仏とつながる面もあり、野狐禅などということばが示すとおり、変に「悟った」と思ってしまうことの危なさも常に警句とともに言われているところではあるが。

だが、有神論的神秘主義の場合、特にキリスト教ユダヤ教と比べても常に「私と神」「神はすべからく在する」という構えが強いイスラム教の場合、あくまで神は仰ぎ見るもの、というのが基本だという。

そこでイスラムスーフィー系の人が、あくまで神と我、と峻別すべきところ、深く考えた末、私と神は同一だ、と思い、いうことで破滅することを知りつつその言葉を迸らせて、刑死する、ということが多くあったという。

分っていても止められず、その結果刑死する、ということの壮絶さと切羽詰まり具合を想う。

勿論キリスト教でも、マイスター・エックハルトがとうとう、といっていいのだろうが、異端審議の為に向かう途中で亡くなったことなども思う。自らを深く掘り下げた結果、刑死に至る、というのは、なんとも言えないものなのだが、逆にその「なんともいえなさ」がこうした態度や境遇を、今に伝えている、ともいえるだろう。

「われわれはこう教えられているが、違う風に考え、だまっていればいいのにそれを口にだして、自らを死にいたらせ」た存在、それを見ること、知ることは、

ひとをして深い懐疑にひきずりこむ力を秘めている。

(いろいろな「世間のとほほ」はあるでしょうが、これも究極の「とほほ」である気がします。)