の、"The Power of NOW A Guide to Spiritual Enlightenment”
(邦題:さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる)
を読んでいる。
英語版の題を読むと、”今(を生きる)力、今を意識する力”という感じだろうか。
日本で、”さとり”というと、基本的には宗教(仏教)を思い出す。
それを避けるため、ひらがなとしているのだろう。どうしても読者の事前イメージで読者層が限られてくるのだろう。
そして英題(サブ)に含まれる語、”Spiritual"。これもこの国では、どちらかというと、新興宗教の信者、という語感が伴う。スピリチュアル、という語を見た時に、警戒感が起きる方も多いだろう。
この2つのハードルを越える、あるいは逆にそのハードルに惹かれる、ということがまずこの本を取るときに必要になる場合があろう。
”Spiritual Enlightenment"=魂が明るくなる、わかる が”さとり”と訳されているのは、納得感がある。
今回のこの本は、最近読んだケン・ウィルバーの著書からの連動である。
まずは気になった箇所を抜き書きしてみる。
”「過去は、究極的には現実ではない」と認識して、「いま、この瞬間」を、あるがままに受けいれることが「許し」です。これをおこなうと、心に奇跡的な変容が起こるだけではなく、外界にも変化が起こります。強烈に「いまに在る」と、心に平和をもたらすだけではなく、外界にも平和が生まれるのです。”
P.240
”思考と抵抗は同義語ですから、事実を受け入れた時点で、思考から解放され、「大いなる存在」と、ひとつにつながることができます。”
P.239
”「あなたの運命に織り込まれた模様は、たとえどんなものでも、受け入れなさい。それ以上にあなたの必要に、ぴったり適合したものはないからです」”
P.239
思考が、みずからの心の表面に起こる、外界からの出来事に対する対応としてのさざ波であり、それは”対応””対処”というポジティブな印象を持つことばで表現されていても、究極は”抵抗”である、という部分はたいへん納得できる。
日本人でこうして過ごしていて、自分として感じる宗教感でいくと、仏教であれば、死ねば仏となる。仏は、大変ラフにいうなら、神、と同義、あるいは類似のものである。その他、極楽と地獄へ死後行く魂、という図式は、キリスト教でいう天国と地獄に相当する。極楽往生と仏化が同義でるかは、ぼんやりしている。また、この国には禅仏教がある。
禅では、”仏にあえば、仏を殺”す。これは、”仏”の語で、物事を決めて、その裏にある真実を見過ごすことを戒めている、というのが、先日の井筒俊彦氏の文の引用を通しての今の理解である。
禅には、グノーシスにも通じる、”すべての人に神性(仏性?)がある”という意識があるように思っている。
私は、特定の宗教に所属しておらず、こうして一人で考えているだけなのであるが、まあこの日本で過ごしてきての宗教意識?皆さんの理解?は上記のような感じではないかと勝手に解釈している。
そして、この日本、宗教的タブーが無い、あっても大変ゆるやかであるように思える点は、とてもいいのではないかと思っている。
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