夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

外的刺激への反応としての感情と、内的な思惟の違いがあるのかどうか。熊本出張で法華ホテルの朝食バイキングの件について。

昨日は熊本へ行った。これを書いているのは8日当日。

いつもはなかなか日記が書けない日があるので、数日前から準備するようにしている。これは何十年と職業作家でありながら無料の日記を続けられたという森博嗣さんのひそみに習っている(実行できていませんが)。

しかし在庫が尽きた。秋から冬にかけて泊まりでの出張も増えてくる。なかなかヤバイ状況である。

さらに熊本では法華ホテルというところに泊まったのだが、ここが非常にヤバいホテルであった。

なにがやばいか。朝食である

1100円の朝食バイキング、6:30からのスタートに一番乗りで臨んだ。

うーん。熊本名物が目白押しだ。からしレンコン、そのほかは名前もみずに皿に盛る盛る。

そして見つけた。北海道名物である(たしか)ザンギである。勿論一番に並んでいるので、まだ誰も手を付けていない状態でたんまりと皿にある。

陶然としてとりあえず5個ほど取る。

いつもはフルーツから取るのだが、物価高騰の折、フルーツでは苦労されているのだろうと思う。それは仕方がない。熊本名産でまったく文句が浮かばない。でもまあオレンジを5切れほど取る。

私は正直、日々飢餓状態に近く、イメージとしては”ダメージを受けたあとのルフィの食事”の体でがっつく感じになってしまう。

ということで、みるみる5個を食べつくす。肉もフルーツも。

他にも練り物系のものを10個くらい口にぶち込んでいる。

で、追加でザンギだ。やっと落ち着いて2個くらいにしてあとは野菜系を攻める。酢の物やザンギの下の焼き野菜などなど。春巻きの入ったスープ(これも郷土料理だった)も飲みこんで、ヨーグルトもぶち込む。

どんどんばりばり食べている。何度も往復する。

で、久しぶりの感覚を徐々に味わってくる。

そう、飢餓感が薄れているのだ((笑))。

だが油断せずに?次は牛スジならぬ馬すじカレーだ。とりあえずタンパク質はまあまあ取っているとは思うが、納豆も取る。取りえずカレーにぶち込んで一緒に食べる。

注意したのは糖質摂取だ。ごはん類はさすがに避けた。

これだけの満腹感はひさしぶりだ。実は一昨日熊本に到着したのが9時すぎで、宿泊場所ちかくで10時くらい。店があまりなくて、松屋併設の24H営業のかつのやで、特盛ロースかつ&唐揚げ定食を食べているのだ。

松屋系は店によりごはんおかわり無料だが、この店は違った。違ってよかったかもしれない(特盛を食べてはいるが)。

満腹感どころか、腹痛が発生していた。同じ階のトイレで1時間休憩した。

今ぐちゃぐちゃと神秘学、キリスト教神秘主義人智学あたりの本をあさってきて拾い読みしている。中古本を買い、高くて買えない本は図書館に予約し、AMAZONで買ったりもしている。

神秘主義とは言ってしまえば、自身のうちに神を見出し、合一化する一元主義、のことだと言えるかもしれない(今の浅い理解ですが)。

所謂キリスト教文化は、われらと敵の2元論。善と悪を峻別するものは基本2元論となろう。一元論がキリスト教文化で異端とされたのは、自身が神と同一と信者という名のお客さんが思うことにより、お客さんがいなくなってしまうと仲介者や職業としての教会がなりたたないからだ、とこれも個人的に理解している。

実際もし一元論がこの世界のベース宗教になってしまうと、今の世界の状況は全く違ったものであったろうと思う。

まあ自分に引き寄せて考えるなら、仕事がなくなるのがたまらないのはわかる。だが”よすが”と”真実”が乖離するとき、やはり真実がじわり、きらりと光ってくることを止めるのはむつかしい。

このあたりが私が神秘主義に惹かれる理由だろう。禅や大乗仏教の教えと親和性があることも、ここ日本でそれを考えやすい理由かもしれない。

なにしろここ日本で、私がプリミティブに持っているイメージは”成仏”つまりは死んだら仏になる、である。仏が菩薩を経たのちに到達する得難い存在だ、などという考えを知ったのは最近のことだ。基本、死んだら仏になる、というイメージがあった。まあ、幽霊的存在になり、或は魂として極楽地獄にいく、というイメージもあったが。

まあ、そんなことをいってはいるが、私は母親キリスト教、父親神道、仏教とはなんらご縁がない。ただ例えば絵本などから、イメージとしてこうした考えが自然と入ってきたのだろう。

これはエックハルトかシュターナーがもうわからなくなってしまったが、いずれにしろ外から得る刺激に対する反応の総体が人生である、と普通人は考えるが、本当は自身の内面に光り輝くものが潜んでおり、それをもとに考える、ということこそが人生である、という考え方を知った。この考えは非常に魅力的である。外界からの刺激への脊髄反射的反応が感情で人生である、と考えることがなにか残念でそうではないだろう、と私は心の中で感じていた気がする。

内から出てくるもの、考えと内面の間に自由な芸術が生まれ、美が生まれる。一時美学講師を目指したというシュターナーの美学論も高橋巖先生の著書で知ったが、まさにそんな感じである。

私が私なりに絵をかきたくなる理由、それは私を取り巻くすべての世界を、曲りなりにも紙に定着させたい、という欲望が大きいと思ってきた。

それが自由であり、美である、というシュターナーの美学を知って、大変力を得た気がした。

(まあ、人に批評されることを意識しすぎていた気がします。うまくバランスを取り、見て頂く機会を作る、という程度で行こうかな、と思いました)