P.21 東西宗教の出会い、の問題点。
(前略)究極的なるものの無制約的確証を失うことなしに、自宗教の自己理解を構成している枠組みや基本述語を相対化し得る可能性があるかどうかという問題(後略)
P.10 仏教の最肝要点。
「一にして二、二にして一」こそ平常心のうちに透明に現れる現実の現実的関係なのである。
このように仏教の場合「一」とは、実体的「一者」ではなく「一如」の関係のことであり、その関係は、実体をどこまでも空解してゆく「無」ーそれは「無」の実体化の否定としてただちに「無の無」、「空を空ずる」という動性となるーと表裏相即している。
あるいは「無」は一如の関係の可能根拠であり、一如の関係は「無」の現存であるといえよう。これは仏教の最肝要の点であり、伝統的な述語で「空性と縁起」あるいはまた「色即是空、空即是色」という形でとらえられたのもこれである。
P.8
仏教では無はあくまで実体概念の解消である。
同書では、ルドルフ・オットーが、禅は上に向かって限りなく開けた性格であり、マイスター・エックハルトには”内面への無限性”を見て、例えば一般的な神秘学やヴェーダンタ仏教や新プラトン主義やプロティノスとは似て非なる性格がある、といっていることを伝えてくれる。
池田晶子さんは、水平に無限、縦軸に無限、というスタンスで考えておられたが、これはいわばここでいうエックハルトの”内(下=内なる魂)への沈潜と、禅の限界がない飛翔(上=外なる魂(群?))の両方を兼ね備えた強さで、この世のとほほ(横軸?)を縦横無尽にばっさりと切られていたのだな、と思ったりする。
東西宗教の融合、ということを考えるのであれば、前に私もここの欄で書いた気もするが、各宗教が長い年月で把握してきたそれぞれの"真理”といったものが、似ていたり、すこし違っていたりするが、人類の叡智というものであり、宗教であるが故に様々な壁があるが、それを取り払ったいわば”各宗教の叡智の結晶”というべきものをまとめて見て、感じたいものだ、と思ったりする。
そのあたりに、学問としての哲学や宗教学の立場(宗教の壁に阻まれない)と利点がある気がする。
真善美、というが、それが宗教感などの制限でアクセスできない状態は、残念なものである。
だが、いまAIという仕組みがあり、まずはテキストで叡智が蓄積されつつあるのだと思う。
ということは、人類史上初めて、こうした叡智が、誰にでも、適切なアクセスをすることによって一同に見る機会と、なりつつあるような気がしている。
(これこそ、進歩、という感じもしますね。WEBの無地域性(言語や距離に基本阻まれない)があってこそですね)
