夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

神とは文化のことだろうか。

日本の八百万の神、というのはつまりは、群島文化のことだろうか。農耕文化の神、ともいえる気がする。

八百万といえ、ある神はある神と同格であろう。勿論その性格や出自は違うであろうが、違っていなければそもそも「別の神」とは言えなくなる。

一神教、とは大陸文化の具現のことであろうか。また狩猟民族の神だとも思う。

狩猟民族とはドミナントしようとするものだ。他所は征服し、隷属させるためのもの。一神教の神はすべてのものに自らのみを信じることを求めるものだ。

そして他民族の宗教は異教、邪教と判断し、その民族の神は邪神、悪魔とみなす。あるいは「悪魔も神の御心の中で存在するもの」として取り込んでゆく。

そうしないと、狩猟民族は存続できないのだ。ぼんやりしていると、他の狩猟民族に滅ぼされる。

農業とは、区切る文化である。すべての世はひとつである、として感じていた人類が、農業を始めたとたんに「自分のみ、あるいは自分の身内や仲間のみの土地」という概念を主張しはじめた。

それまではのどかな一神教であった万物自然神羅万象すなわち「一としてのこの世」を、自分のみの空間を幸せにするように、そのことが確信できるような形で、取り込みたくなる。

比叡山の僧兵は、神輿を担いでその中に仏を「勧進し」、都を練り歩いたという。僧にこの中には仏がおいでになる、といわれれば、一般民は論破できるわけがない。

かように日本の神仏は「区切られて」来た。区切って、自身の縄張り=田畑や村に勧進したり、祀ったり。自身の権利を主張したり。

こんな状況では一神教が、この日本であまり流行っていないこともあたりまえすぎるだろう。サンタクロースも、聖人であるかもしれないが、八百万の中に入りうる。なので、積極的に気にせず仲間に引き込めるのだ。

私自身は、強制されて拝む、という経験が子供時代になかったせいか(父親神道で母親キリスト教)、長らく神社でお参り、ということがうまくできなかった。

だが今は家のまえに神社がある。とりあえず礼拝していると、神社のなにもない空間が、己を映すもののようにもじわじわと思えてくる。

つまりは神とは文化が母親であり、母親に似た在り方を、自然となすものなのであろう。

(東西他所の文化やなりたちを考えるときに、神、というキイワードは役にたちますね)