夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

苦手、とは比較の言葉であることに今さらながら気づいた。

そもそも「苦手」という意識は他人との比較を含んでいる言い訳のための言葉である。自分が主役の自分の人生に得意も苦手も言い訳も本来不要である。

はずなのだが、人生の初めての集団生活では、まずは集団の中で、「人並みにできること」を強制される。

そして、「苦手」を「普通」にしなくてはならない、「得意」があれば集団生活は快適だ、ということをからだで覚える。

 

しかし本日、やっと気づいたのだ。「苦手」とはだれかと、自分を比較している。

「苦手」という言葉を脳内でつぶやいたとたん、「言い訳」がしたくなる。

そして、気分が落ちる。

 

しかし、自身でできる精いっぱいがあるだけで、それをわざわざ「苦手」といって「攻撃しないでください」と祈るように思う環境って、そもそもどうなのか。

自身が、まずは精いっぱいやっているか。それだけではないのか。自身が精いっぱいやっていなければ、それはやればいい。

 

例えば親以外の保育管理者にとって、他人の子供の管理をするのであれば、その子ができるだけ「手がかからない」ことを自然と望むだろう。

手がかかると、勿論できるように指導しよう、というのがあるが、どこかで「できないその子」をめんどくさく思う人がいるだろう。

そうではない、人もいるだろう。

 

私が子供であれば、前者は避けて、後者に寄ってゆく。

 

多分、その人の語彙には、あまり「苦手」はないだろう。まだできない、やれるようにトライしようね、があるだろう。

だがそれは手間がかかる。手間がかかるとは、場所や環境によっては「コストがかかる」だ。

 

組織としては、前者を優遇、する組織が当然ありうる。昔あった、株式会社学校、などはやはり効率重視、前者の人を高級優遇、となる場合もあるだろう。

 

保育園に小さいうちから預けること。

介護施設に老人を預けること。

 

これらのリスクは似ている。つまりは「施設でいじめられる」だ。

 

でも、女性は働かなければならない。手がかかる老人は介護施設に入れるしかない。

 

そう、なっている。

 

なってはいるのだが、

いやあ、きついなあ、、、、

 

というキブンが本音のところで、問題点として、ある。

(どうすれば、いいんでしょうね。。。)