夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

匿名ということ。

内田樹先生の本が好きでよく読んでいる。

今読んでいる「街場の芸術論」で、ご自身は記名での発信にこだわっており、匿名での発信は責任感がなくて「卑怯だ」というご意見を読んだ。

いや、「卑怯」とまでは書かれていないようだが、私自身はそう読んだのだ。

このブログというか、日記も匿名(というかブログネーム)である。

そして私はこういう形での発信を実名でやろうとどうしても思えないのだ。

だが、その知見にいつも深く唸らされる内田先生がそうおっしゃる。

これをどう考えたらいいのだろうか、という宿題を、昨晩寝る前に仕込んだ。

 

眠っている間の深層心理に質問をする、ということが最近はたまにある。寝ている間に日中のとっちらかった情報などが整理され、朝起きるとすっきりしている、という感覚がある。エスキースを描くのも、起きてすぐが多い、というかほとんどがそれである。絵を描く時のアイデア出しは、朝しかできない、と言ってもいいくらいだ。

継続して、空間を埋める、という作業が版画ではある。この部分、技術的に時間をかける必要がある部分を日中に行うのだ。

朝起きると自分なりの答えが出ている、というケースがよくあったのだが、昨日は意識的に質問を寝る前に仕込んでみた、ということだ。

答えがあった。

匿名でしか、私が書けない理由、それはこうした様々な発信(いわゆるSNSや版画制作活動)が、自己を見つめる、自己評価、自己分析の作業であるからだ、というのが、わが深層心理の答えであった。

いわゆる、インプットしたものをアウトプットしている行為だからである。

つまりは、その場合、アウトプットはできるだけ他の雑音を気にせずだせるものにしたい、ということがあるのだ。

自分を見つめて、自分を評価する、自分が自分の底で「真にやりたいと思っていること」を引っ張り出してみて、自分で検分する。この作業がこうした日記作成や版画作成の自分にとっての意味なのだ。

内田先生がおっしゃるのもわかる。だが先生は大学等で教えてこられ、今も様々な講演等で知見を人に知らしめる、ということを生業(金を稼ぐ、というレベルではなく、本来されたいこと、という意味での)とされている。

翻って、私は。ずっと思ってきたが、人になにかを教える、ということが苦手だ。これは自分がやっていることを、系統だてて、構成してやっているわけではないからであろう。要はなんでも感性でやっているのだ。

このやり方は、雑であり、ジワリとした高度なところへの進化や深化が難しいやりかたである。本当は、感性ではなく、理性でしっかり自身のやっていることを確認したほうが、しっかりしたものができるし、自身の真の力になるだろう。時間は、かかるだろうが。

例えば、天才は監督になれない(なぜできるかが指導できない)が、苦労人や秀才タイプは名監督になる、というものと同じだろう。

私は人に誇れる技能はない。それなのに生きるときに使っている生き方自体が感性たのみで、それをきちんと言語化しないし、言語化に合わないものである、という感覚もあるのだ。

絵を描くことは、感性と技術が必要であるが、私の場合は感性に比重が寄っている。技術に全く比重が乗っていかないのだ。

これは「怠惰」「不真面目な性格」と言われるものだろう。だがそうでないとやれない、という感触があり、仕方なくそうしているのだ。

これは多分、絵を描いたりSNS発信することが、私にとって「金を稼ぐ」手段ではない、というかクオリティ的にそうできない、ということだからであろう。

よく、好きなことを仕事にしろ、という意見と、好きなことを仕事にすると、好きなことが好きでなくなる、という2つの意見を見る。

前段は理想だが、私見だがそれには「圧倒的な、他社を圧する才能や、結果を出すGIFT(天からの)が必要」だ。それが無い、あるいは大したことがない(金を稼ぐほどには=他者を圧するほどには)場合は、後段を採用するしかないだろう。

思えば、上手く言語化できていなかったが、私は無意識に大学卒業までに「自分はどのようになんとか糊口をしのぐのだろうか、自分の人生で」ということを常に考えていた。

これは多分、大学卒業までに「好きな分野で他をすくなくとも圧する部分がなくはない、稼ぐことが出来る能力」を自身の中に確認できなければ、好きな分野で金を稼ぐのは無理で、それを確認できなければ、好きではないことを愚直に、それこそ苦手な「真面目にやる」に取り組んで、嫌でもなんでも、「仕事として」やるしかない、そう、考えていた。

これは多分、多くの皆さんが考える思考の道筋であるだろう。すこし古いところでいけば、「大学紛争でゲバ棒を持っていたが、就職のときに髪を切って就職した」という奴だろう。転向する卑怯ものであるが、自身の生きていく能力を人にばかにされても受け入れる、ある意味勇気のある行為、としてそうできなかった人に揶揄をまぶした賞賛をもって言われる、あの行為と似ている。

私は、早稲田の一文には入れれば、文学部界隈でいきていくことを自身に許す、と決めていた。それ以外の文学部は、就職力がなく、なれるのは「学校の先生」がせいぜいである、と自身の中で勝手に決めていた。これは別に人に押し付けるものではない。自身の自身だけの、評価である(今はそうではない、と思ってはいる)。私は人に教えるのが苦手だ。つまりはコミュニケーション(これはコミニュケーションが正しい、とある人に言われたことがあるが、こうした外来語は自身で表記が決められる=英語の発音の正しさをベースにして決定する必要は必ずしもない、と思っているので、自分で選ぶ表記とする)の弱さであり、それは多分運動神経がゼロで体育の時間にいじめられた経験から、学校というものが基本苦手だからということも理由の一つだ。なので、いわゆる高校以下の先生にはなれない。なってもつらすぎる。

なので、文学方面には行けなかった。文学をとことん研究する(例えばフランス語などを学び、フランス文学の教師になる)というような方向(いわゆる大学の講師路線)は、自身の高校までの語学力と、それを突き抜ける文学への興味がなかったことから断念した。

では、芸術系大学か。これはいわゆる中堅進学校(決して一流ではない)の進路としてはほぼ実績がない。美術部ではあったが、そもそも顧問の教師さえいないのだ。

したがって、「就職につぶしがきいて」「苦手な算数が受験科目でない、あるいは配点が低い」ということで、法学部に入ったのだ。

では、法律でやれるのか。文章という意味では、算数よりはましだが、あの文章体系は無理であった。やはり文学系の文章しか読めないのだ。

ということで、卒業するためだけの大学。残念ながら大学ではほとんど自主的な学びはやらなかった(そのことは今でも残念であり、自身が本当に学びたいことを見つけて学びたい、と今でも思う)。

内田先生は、直截に、自身の専門に結び付いた責任のある他者への意見を開陳されているのだから実名記載でいい。

私の場合は、自己分析のような、独り言のような、ものであるがゆえに、他者への責任、という部分がそぐわないように感じられる。だから匿名となってしまう。

これが今の結論だ。

なので、自分では別に抑えることはないのだが、他人への糾弾や意見、というものは、つまりは政治的なことは、ほぼ表出することはない。

いや、押さえなくとも、別に政治に興味がないのだ。せいぜいは自身に関係があることへの、不満位だ。

自身に関係があることは、それを梃に一般論にもっていけば政治的になりうるが、不平不満レベルでは政治的とは言えない、と自分では思っている。

まあ、こんなところだろうか。

 

村上春樹さんが一般の多くの皆さんの質問にこたえられたのを集めた本を最近読んだのだが、そこに「夫の携帯電話を見てしまったがどうしたらいいか」という質問があった。

村上さんの答えは、「基本他人の携帯電話は見るべきものではないし、自分も自分の携帯は奥さんは見ないし、自分も決して奥さんの携帯を見ない」というものであった。

携帯電話とは、昔でいうところの「人に見せない日記」のようなものだ。

そこに赤裸々に心情が吐露されていると、それをこっそり見た「お母さん」が悩むようなことがある。わが子はこんなことを。こんな人と付き合っているのか。こんなことをやったのか。

また相手の携帯電話を見て浮気を疑い離婚、というのもとてもよく聞く事象である。

かように、個人の心の吐露は、危険である。

。。とするとSNSやブログもまた。。

(このあたりが、よく考えておかないといけないところなのでしょうね。。。)