夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

自己予言成就のリスク「私は算数が苦手」。

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最近は結構長く勝間和代さんマイブームである。その前は森博嗣さんブームであったが。

ということで勝間さんの言葉からまた引く。

自己予言成就のリスク「私は算数が苦手」、である。

 


口に出して言うと、どうやら脳がそれを「自身への指令」と取るようで、無意識がその方向に行くことこそ善、と認識して、どんどんそうなってゆくのだ。

これが「自己予言成就のリスク」だろうと個人的には理解している。


だが、もともと数学が嫌いであれば、そう口にすることで、数学をやらなくてよくなってくる、という現象を肌で感じて、「これはいい。どんどん言って行こう。らくちんだ」となるのだ。

その結果、本当はまあまあ数学が出来るかもしれないのに、とことん嫌いになってしまう。


結局学校とは「比較がすべて」の場であるからだろう。幼年期からの学校生活で、比較されることのしんどさが心の底から継続実感され続けるのが問題だ。

比較のない、学問、自ら選んだ学問(たまに学会とかの比較はあろうが)をやる、という少数の幸せな学び人がかつてはいた。大学人、という種族だ。

だが、政治家のルサンチマン(うらやましいし、偉そうにしやがって腹立つ)が爆発して、大学人はもはや幸せな学び人ではなく、社会の歯車製造機となるよう強制されている。それでも自ら社会に出るよりはマシだ、ということで、志望する人はいるだろう。だがこころをFREEにして、長期的な果実を狙うような研究は、もはや日本では期待できないのだろう。

エゴによる人との比較は、ある程度過去からの進化の中での生き残り戦略であり、集団の中での自己の位置把握と、集団の中に居続けて、生存期間を延ばすためのDNA的手段としては、たぶん一番秀逸なのだろう。

だが、その結果「できないことは死につながる」という気もちがいつも不協和音のように、住宅ローンのように、鳴り響いているのだ。

これはストレスになる。

 


だが、エゴは自身の敵ではない。ゲド戦記でゲドも言っている。もともと自身の中にあるものだ。

だが善悪とは関係がない、自己保存のためのアラーム機能のようなものなので、時と場合によってはストレッサーとなるのだ。

なので、エゴがつかんだ問題点を、エゴだけに任さずに、正面から見据えて対策を考える必要がある。

考えたら、エゴと仲良くなり、自身の納得感をもって生きていける。

 


結果的にエゴが提示した案と同じになることが、実は多いだろう。だが自身で納得した上でGOした、と思えば、その案は自分の案、としてストレッサーにはならないのだ。

というようなことを、なんとなく考えている。

(勝間さんの言葉がきっかけになることがよくあります)