夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

徐々の変化こそがシンギュラリティ。

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勝間さんのメルマガで頂いた気づきだ。

 


これを実感するのが、ドラえもんの「翻訳コンニャク」だ。

食べると翻訳してくれるコンニャク、というのは、実際に食べてあたかも自身の能力と化したような気がする点があるので、いま翻訳機能のついたデバイスを手にしても、自身が機能として「翻訳コンニャク」相当のものを得ている、という感がない。

だが外国語が自身に能力がなくてもお互いに(今はある程度だが)分かり合えるものとなったことは事実である。

という意味では、これにより同時通訳、という職業は衰退するであろう。

 


駅のアナウンスも相当デジタル化したと推測している。昔は独特のデパートのアナウンスなどを聞いて、それがいわゆる特別感や非日常感を得るのに役立ったものだが、もはやアナウンスは機械がするもの、という事になったのだろう。

ちょっと前はだいぶイントネーション等で作り物感があったが、最近では微妙なイントネーションの差を感知して、あれ?これは人口ボイスか、と感じる程度までになった。

 


最近は新幹線アナウンスで英語で頑張ってしゃべるようになったが、明らかに「帰国子女なみ」というアナウンス(=聞き取れない)がたまにあるが、だいたいは苦労のあとが滲んでくるようなものが多い。

いや、私がしゃべれるわけではないが。。。

これもどんどんデジタル化するであろう。

ということで、勝間さんのメルマガでの気づきは、シンギュラリティは急にくるのではなく、気づかぬうちにじわじわ来る、ということだ。

 


機械がほとんどの作業をするようになれば、いわば古代ギリシャの人々(奴隷がたくさんいて、彼らは生活し、楽しみ、あるものは哲学する、という精神の余裕があった、と理解している)のように、人はまた思想することや、「生きること」を自身の人生の中心にできるようになるのかもしれない。

これはこれでいいことだ。

シンギュラリティ、が不吉な響きをもつのは(個人の感想です)、例えば映画マトリックスで描かれたように、基本機械に人間が「無力化」「無意味化」され、全員コールドスリープさせられてそのことも自身は知らない、というようなディストピアをイメージするからであろう。

だがそれは多分、AIがそうしたい、というよりは、だれか人類がそうした意思をもち、AIを駆使してそうする、という前提ではあるのだろう。

だが、そうした「個人の意思」にしても、永遠に受け継がれるわけではなく、その個人が長い年月のなかで「滅した」のちは、いわばそれを維持しようとする仕組みに我々人類が飼いならされる、というようなことになるのだろう。

そうしたリスクを考えること、このあたりがいままでの「とりあえずうまくやっといてや」という政治から、人類が生きるルール作り、というより切羽詰まった判断業務へと変わってゆくこともまた、あるのだと思う。

(アトム、も基本人類とは別の彼岸にずっといましたからね。。そこが辛かった。。)

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