夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

シンギュラリティはキューティーハニーで実現していた!「さまよえるオランダ人や人魚捕食者の永劫の苦難への怯え」系譜の物語について考えることとか。

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東映動画の70年代アニメの第一回をYOUTUBEで見られるのに気づき、いろいろ見ている。

やはりこれから見てもらおう、ということで、第一回目は気合が入っているだろうし、今後の展開がぎゅうぎゅう織り込まれている設定からわかるので面白い。

昨日はキューティーハニー。私は荒木伸吾、姫野 美智キャラの大ファンであるが、この時はまだ姫野さんは荒木プロに参加される前だと思う(1974年9月入社)。ハニーの放映は74年3月までなので、高校時代の姫野さんがあるいはハニーの画風を見て荒木プロ入社を決意なさったのでは、などと勝手に思っている。

久し振りに見たが、改めて荒木ワールドに魅了された。峰不二子(旧)でも聞けるハニーの声もすばらしい。
勿論、動きはコスト的にガクガクするし、セリフも今の時代感覚では滑稽な感じもある。だがそれがいい

私は永井豪ファンでもあるが、荒木キャラの永井作品(ほかではグレンダイザーかな?)は、例えばあれだげゴルドラックがフランスで受けたのは、やはり荒木・姫野の流麗な線描がその大きな理由だと思っている。

まあ、それは置いて、ハニーの設定を見ていて、ハニーはロボット=アンドロイドなのだが、如月博士の実の娘として自身を認識している。幼少期の記憶もあるようで、これは博士が記憶を埋めこんだのか、幼少体を作ってメモリーを継続させたのかわからない。普通は前者となるだろうが、如月博士のキャラを考えると後者の手間を掛けたかもしれない、と思えてくるし、思いたくなる。

そしてタイトル回収だが、ハニーは全く自然にシンギュラリティを体現していたのだ、ということに気づいた。ごく自然な感情表現。アンドロイドである悩みはもちろん描きうるであろうが、1話を見る感じだと、積極的に人間世界に受け入れられ、愛されている。

このいわば「能天気なシンギュラリティ」が心地いい。例えばアトムも同じく感情表現はあるものの、いつもロボット3原則に縛られる苦悩が根底にあるだろう。米国で人気だというキカイダーも同じ世界にいる。

図らずも当時の3大マイFAVORITE漫画家である手塚、石森(当時)、永井の3巨匠がロボット(アンドロイド)を造形しているのだが、ハニーは人間寄りすぎて、そこが底抜けに明るく、楽しいのだ。

やはり永井豪先生は偉大である。そして荒木伸吾先生も。
個人的な余談ながら、知り合いの方が荒木先生の娘さんと友人であるということを最近知った。それだけでも親近感がいや増すところだ。

ハニーのあとに見たのが、メイドインアビス(後期)。以下ネタバレ的表現を含みますのでお気をつけください。

見たのは第2期でまだ途中までだが、成れ果て、という設定が結構胸にささる。人類がなんらかのきっかけで、人外のものとなる、という恐怖、いわゆる「成仏」や「天国へ行く」といった魂のあがりの設定を、信じていようがいまいが、そこに行きつかず苦悩するという設定を見ることは、なにか心をざわつかせる。

古来から思い出してみても、人間が人間以外のステージに行くこと、そこが本来の終わりではなく、どちらかというと科としてその立場に陥り、あるいは追い込まれ(結果として、も含む)、永劫にさいなまれるかもしれない、と思わせることは、様々な説話、神話、宗教のなかでバリエーションを持って語られているのだなあ、と今日風呂の中で考えた。

古くグノーシス神話では、この世の造物主であるアブラクサスは、自身が真の神であると自任しているが、実は「汚れたこの世界を作った」真の神ではない存在なのだ。だが本柱(こんないいかたあるのかな?)はそのことがわかっていないし、わかっていないことがとりもなおさず彼/彼女が真の神ではないことを示すのである。

キリスト教に行けば、例えば「さまよえるオランダ人」。この伝承には詳しくはないのだが、神への不敬あるいは科により永遠にさまよう、という辛苦の刻印を押された存在だ、と認識している。不死であろうが、そのことを苦悩する存在である、という認識だ。

そして日本では人魚の肉を食べれば不老不死。だがそこには幸せの光はまったくなく、殺してくれ!と叫びたいような苦難の影がつきまとっている。

石森ワールドの系譜で行けば、平成仮面ライダーで何個かこの種の設定がある気がする。555にアギトにブレイドに鎧武。うろ覚えなので違っているかもだが、まずはブレイド。朴訥でセリフもカミカミの主人公が、最後に人間を離れ、あるいは捨てて神的世界へゆく。これは死をも暗示するのか。その落差も相まって、深い余韻を個人的には感じたのだ。
555もそうだ。オルフェノクの設定ははっきり覚えていないが、基本死人のよみがえり。なんと主人公もオルフェノクの一人である、という設定は意外であった。まあ、初代はショッカーの改造人間なので、それでいけば主人公が敵と基本同種である、というのはあるにはあるのだが。そこに「死んで復活」、いわばゾンビ的ヒーローである、という点は印象が深かった。
鎧武も確か最後は人間を捨てたのではなかったか。こちらもどこか哀しい設定が作品の余韻として残っている。
他にもいろいろあった気がするが、こうした生と死のはざまを行き交う、という設定は、結構平成以降のライダーであるように思っている。

エヴァでもそうだ。使徒と人類は基本どの実を食したかの差異による兄弟のようなもの。エヴァ搭乗者は不死に近づき、使徒サイドへの取り込みリスクと隣り合わせだ。そもそもエヴァ自体が、シンジの母の依り代のようなものだし。

多くの説話はそうした構図を持つ。そして個人的にはそうした説話に深く引き込まれてしまうのだ。メイドインアビスを面白くみている要素の一つには、成れ果ての生成過程と今の見た目、という点も大きいと思っている。

(まだ途中ですがーー)