オーラ、というものがある。
あるのか、ないのか、という次元の問いと、
あるものとしての技術論があるように思う。
ある、というと、ちょっとスピリチュアル、という話になるのかもしれない。
例えばコナン・ドイルが熱中したという心霊学系の。
僕自身が最近感じるのは、すくなくとも古来言われている”気”というものはあるように思う、ということだ。
それが、”オーラ”といわれるものといっしょなのかどうか。
多分重なる部分があるが、違う部分もあるような気がする。
気配や、闘気、といったものだ。
なぜ、こう思うのか。
僕は、動物好きだ。まあ、主に接するのは犬に猫だが。
彼らに接する時、動物好きの僕は一つ、なでてやろう、という気持ちでいる。
だが、散歩している犬をいきなり触るのは失礼だろう。
そう思ってガマンする。
だが、ガマンしている僕に、妙に懐いてくる場合がある。
無論初見?だ。
猫もそうだ。ノラであれば、いじめられた経験のあるのもいるだろうから、ことさら近づくのはかわいそうだ。
そう思っている。
だがまあ、なんにもしないよ、どうよ、調子は、
などと(心で)つぶやきながら近づいてみれば、
逃げないケースが多いのに気がついた。
これは、間違いなく”気配”ではあるだろう。
動物はそれが多分色かなにかで見えているのではないか。
そう思っている。
これを、”オーラ”と言い換えれば。
オーラ、というと、ちょっと心霊が入る気がする。
霊や超能力。チャクラとか。
関係はあるのかもしれない。
ただ、もっと身近ないわゆる”気配”というやつ。
これは多分、あるなあ。
だから、”オーラを出す”というと大層になる。
いい、”気配”、なんにも危害を加えませんよ、という思い、
これがあるだけで、多分”いいオーラ”が出ているのではないだろうか。
そんなことを、最近考えている。
所詮、人間も動物ですから。
動物学、的には。
小林秀雄の講演集がCDで出ている。
3人の酋長の娘がいて、真ん中の娘がワニに食われた、という話しがある。
これを土人(まあ、昔の講演ですから)は、川の神(河、という字のほうがいかな)の思し召しだと思う、という話しがあった。
初め、なにが話されているか、よくわからなかった。
土人のプリミティブな未熟さか。
そうではない。
小林は間違いなく、土人サイドだ。
河の神、と考えること、即ち、起きた事が大きな視点での意思、人間の、というより、あるいは”神”と人格化するよりより大きな意味での、運命、ということを
たぶん言おうとしているのではないか
最近、なんとなくそう思うようになった。
神だなんて思うのは、どうかしてる。
僕は生まれてずっと思ってきた。
(白いひげの、ツエを持って、雲の上から下界を眺めている)
そんな神がいるわけない。
それを、いると思う、信じる、という、
意味がわからない。
そう思ってきた。
でも、人が”神”を語るとき、それはたぶん、実に様々な、
意味を込めている。
100人が100通りの、”自らの神”、たぶんそれは白いひげのおじいさんではない、神、
それを持っているかもしれない。
神、といわないかもしれない。
自然、だったり、生、だったり、運命、だったり、輪廻、だったり。
縁、だったり、無、だったり。
宇宙だったり。池田晶子さん、だったり?
一番、わかりにくいのは、”科学”という神。
神であることを否定するまえに、”神”という考えを否定する性質を持った神。
この”神を否定する神”に気をつけろ。
池田さんはそんなこともおっしゃっているような気がする。
科学が”宗教”たりうること、の危険性に気づき、自覚的な科学者のことは、多分池田さんは信じていらっしゃった。
ただ、そうでない科学【技術=喪志】者には気をつけろ、と。
事実論、技術論になると、話が実は見えなくなる。
進化論を信じない人々がいる、という。
信じないことが信じられない。
バカか?狂信者か?
そう思ってしまう。
そうかもしれない、そうかもしれないのだが、
そう切り捨ててしまっては、いけないのかもしれないな、
技術論ではなく、事実はどうだ、ではなく、
なにか違う視点が必要なのかもしれないな、と思っている。
・・・そんなことを、うすらぼんやりと、
つらつらと
考えている。
池田さん風にいうなら、”アハハ、人間ってなんだ”
というところですかね?