夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

クローンと、デモクラシー。

オルテガ・イ・ガセットというスペインの哲学者がおりましたが、この人がデモクラシーとは何かということについて、非常に重要な定義を下しています。それは「敵と共生する、反対者とともに統治する」ということです。

サル化する社会 内田樹 P.94 「気まずい共存について」

 

人と人とが暮らす。人種がある。年令がある。住んでいる環境にあるいは四季があったり、なかったり。当たり前だがなんだか忘れがちな事実。「同じ人は、一人もいない」。

先日、レプリカズ、というキアヌ・リーブスの映画をアマゾン・プライムで見た。

 

私はどうやらキアヌのファンのようで、彼がまじめなあの顔でいろいろとこなす役柄を見ると、なんとなく頑張ってくれ、という感覚になってしまう。

彼自身はその生まれや人生で、さまざまな苦労を重ねているようだ。だが、なんとなくあの顔を見ていると、”一緒に飲んだりすると面白そう”と思うのだ。彼の父親(彼が生まれてすぐ離婚してそれ以来会っていないというが)はハワイアンであったようだから、白人の母との間であのような風貌となったのだろう。どこか日本人的な感触もあり、別に私は俳優は日本人しかだめ、というわけではないが(どちらかというと女優は外人好き)なんとなく、彼の映画を見てしまう。

 

レプリカズ、という映画はどうやら評判や興行成績がよくなかったようだ。しかし、私は楽しく視聴した。話や設定が荒い、仇がしょぼい、などという意見を聞くし、倫理的にどうか、マッドサイエンティスト、というような意見もある。だが、個人的には能天気に、”一度死んだ家族を、自身の、自身のみの特殊な知識で再度取り返したハッピーエンド”として見ることができたのだ。

 

多分、自分自身に家族や子供がいるためかもしれない。そのことを失うことへの恐怖と、この話の展開であれば悲劇的な終わり方だろう、と感じていたことをいい意味で裏切られたからだ、と分析している。

 

お手軽で、マッドで、倫理に反している、という反応は理解できる。だがそれを超えたハッピーエンドが、個人的には嬉しかったようだ。

最近はすこし、バッドエンドの映画を見るのがつらくなっているのかもしれない。

 

話がデモクラシーから離れたようだが、そうではない。あの映画で出て来た考え方、つまり死者がいればそのクローンを死んだときと同じ年齢で作り、かつ死者の意識の途切れたところまでを複製し、そのクローンに移植する、というものだが、それが、そのことだけが”真の(ほぼ)生まれ変わり”と言える、というアイデアに、なるほど、と思ったのだ。

つまりはあの技術を使えば、究極は一人だけの意識を持った多数の人類が生きている、という世界が出来る。それはどうだろう、1万年位先なのだろうか。

 

どういうことか。私見では、今後の技術の方向として人類は限りなく長命になる。機械やバイオ技術を使い、身体は長持ちし、内臓は取り換えられ、病気は早期に発見されて治療される。そうすると多分、1000年位は同じ人格で”生きる”ことはできるだろう。

だが多分、どうしようもなく細胞が劣化して、次第に人の総数は減ってゆくだろう。なぜか。ある時期よりわざわざ人は子供を増やすことをやめ、今生きている人を”不死にする”ことを志向するようになる、と思うからだ。

 

その「個人」はあるいは数千年維持されるのかもしれない。だが悠久の未来には、最期の最後には、いつか人類は「最後の一人」になるだろう。

その時に、レプリカズであったクローン技術と、自身の意識をそのクローンに移植する技術があれば、本当の最後には、最期に残った人類は、自身と同じ意識を持った人間を作り、その者たちと過ごしたい、と思うような気がするからだ。

 

そこでこそ、そこでだけ、真のデモクラシーは完成する。全ての人が、基本的に同じ考えを持つからだ。もちろん、クローン人間として生まれたのちの経験は様々となる。その結果で意識はあるいは変わるかもしれない。だが、大きくは、ぶれないのだ。

 

そこで生まれる”究極のデモクラシー”の前にあるデモクラシーは、基本的には理解できない他人が近くで生きるためのルールのこととなる。初期設定で、”お互いは違いすぎるので、いやいや我慢するしかない”という義務を含んでいる。それが、それこそが”他人同士が暮らすときのルール=デモクラシー”の本質なのだ。

 

なんとなく誤解されている。別々の人間が、同じ考えになれるように”幻想”している。これが、いけないのだ。それは、夢だ。あきらめた、ほうがいい。

日本人は同質化する思想を多民族より多くもっているだろう。これは、日本が、ガラパゴス島と本質的には同じであるがゆえだ。

ただ、ガラパゴス島より、少しでかいだけ。

 


なので、皆が同じ結論となる、という幻想を、信じやすいのだろう。

だが、多分、間違っている。その考えを、思い込みをアップデートしなければ、ならないだろう。

 


陸続きの世界は、異民族が乱れ住んでいる。そういう形で、文明を築いてきた。そこで生まれたのが”お互い嫌なことをいやいや我慢するルール”つまりが”デモクラシー”なのだ。

いやいや我慢することなしで、デモクラシーを実現しようとするから、いろいろと齟齬が発生しているのが、今の日本ではないのだろうか。

 

”いやいや我慢”抜きでは、多分無理。そのことをみんなで、考えるべきであるように、思っている。

(なんかSFみたいになりましたが。。いや未来予想かな?)