夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

日本における宗教感覚。

昨晩は、15000歩歩いた。蒸し暑い中を大汗をかいて歩いた。

感覚的に暑くなると汗をかいて体を慣らす、という感覚があるが、これは暑くても汗にミネラルが出にくくなるようなので、引き続き厚着でうろつきたい。

体重の63.5kg、体脂肪率は8.7%であった。翌朝測ると63.9kg、体脂肪率12%くらいとなる。やはり体を動かしたあとは、筋肉量が多めに出るようだ。

(一体どちらが正なのか?泣)

田辺元氏の哲学に関する本を読んでいる。難解で寝てしまうのだが、なるほどと思うところも多い。

昨日読んだ箇所では、ギリシャ時代、あれほど観念的な思考が発達したのは、奴隷がいて、自らモノを作るということが無かったからだという。又、神の思想も、自然を超越するものではなく、自然こそが神であったという。この感覚はよくわかり、ギリシャの神々はどうしようもなくだらしなくわがままだ、と思っているのだが、これが自然のどうしようもなさをあらわしている、と考えると納得だ。

一方、近代の人間は、自らがものを作り、手をかけて自らものと関係する、というものであるギリシャの哲学者は自らものに関係しない。物に関係すると、力が必要で、力が意識されることで、それを超克する、という発想が初めて生まれる、というのだ。

そこから、自然があるがままにあったギリシャ時代の精神とは違う、超えるべきものとしての自然が現前する。

超える、という発想があると、自然を超える、つまり自然そのものを作り出す創造主、という性格を持った神が出現する、という。

そして超える、というところから、超えなかったり、気をつかったりという意識から「道徳」「規律」といった要素が神にも与えられる。いわゆる人格神の出現であろう。

つまりは奴隷の有無で、人々の精神世界が全く変わってしまうわけだ。

面白いものだ、と思った。

 

この日本という国は、ギリシャ型、西欧型と比べると、いまもどちらかというとギリシャ型に近い気がする。勿論奴隷がいたわけではないが、いわゆる武士階級であればある程度は自身の敷地で自分で食べる野菜などを作っていたような気もするが、余り自分でものを作る、という感覚がないように思う。

四季の変化、地震や台風などの自然との関係などを見ても、どちらかというと自然の中に神々を見ている、ギリシャスタイルが長く続いた気がする。自然も含め、この世全部を創造する神、という発想は、それほど強くないような気がする。

日本人は一神教的宗教を信じる人が少ない、というが、自然をごく普通に敬い尊ぶ、という姿勢には、原始的な「宗教感覚」が含まれている、ともいえるのだろう。

また、日本ではごく自然に人は死ねば「成仏」つまりは仏に成ったり、神として祀られたりする。神も八百万におわす。このあたりからもプリミティブな自然信仰、というものを「あなたは宗教を信じていますか」というワールドワイドな質問の選択項目の一つに入れてみれば、実は日本人はとても宗教的な人々である、という評価に、なる気がする。

(なんとなく、何に対してかわからないが、敬虔な気持ちになるときがある、というぼんやりレベルでしょうが。。。)