夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

過去を振り返る。

日本人は過去を振り返らない民族である、というコメントを見た。

自らの気持ちをのぞいてみると、確かにその気配がある。

すこし考えてみよう。


過去を振り返る、とは、過去のあのときあの出来事が、自らであったかもしれない、という感覚があるかどうかが大きく関わっているように思う。

これは、実は民族的な宗教感からかもしれない。

日本人には仏教的輪廻転生感がある、と言われるかもしれない。ただ、これが血肉化していない。

だから、過去は”過去”なのだ。


本質的には”自分に関係ない”。

だから、”自分は調べない”。歴史は”自分以外の、興味のある人が調べてくれる”。

こうした感覚が、強いのではないだろうか。


では、彼の国?ではどうだろうか。


”貴重な先人の足跡から、知恵を読み取ろう”という気持ちがあるのだろうか。

たとえば住宅。


日本では基本的には、”自分の家は新築”。



地震が多く、木造であれば、建て替えたほうが”安全だ”。


欧州では石造り。基本的には住み替えとなる。



前の住民の”息遣い”をいやでも感じる。そこを自分の好きな形に変えてゆく。

そこでは先人がまた同じようにしてきている。

だから自然と感じる。”先人とは自分であったかもしれない”。


いや、宗教感という意味ではない。ただ、なんとなく”時間差があっても共時性を感じる”という精神の土台が、そこからでも出てくるのではないだろうか。


そこが学問にも利いてくる。ふるきを訪ねて新しきを知る。古さを足がかりに、そこから”自らの枝を伸ばしてゆく”。


学問とはそのようであるべきかもしれないが、そこで足がかりとする、という部分に気持ちがどれだけ置かれているか。

そこのところが本質的に違っているような気もする。


自分のものを、成し遂げなくては。


そのプレッシャーが自然に強い。



日本は古来から自然災害が多いところだ。

そこで、民族的知恵として、”忘れること”が自然と行われてきた。

重たい、記憶、だからだろうか。



それもある、かもしれない。個人で背負うにはいささか重い。

稲は、毎年植える。1年は1回かぎり。


遊牧や狩猟を生業とする民族と農耕民族の記憶のDNAの差,といった面もそこには、もしかしたらあるのかもしれない。