夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

所有とはなにか。

人が、ものを持つ、というのは、どういうものなのだろうか。

”持つ”という状態に、人は大いなるドクサをもって接しているのかもしれない、と考えている。



どういことか。



”持つ”ということは、永続できない。

だが、そこには”永続できる”、あるいは”永続させたい”という所有者、といわれる立場のものの思いが大きく存在している。というか、ほとんどそのことが”持つ”ということなのだ。

だから、永続できないと、苦しむ。喪失感が残る。

持つ、というものは苦しいものなのだ。

そこのところを、なかなか人はわからないように思う。

なぜなら、持つ=永続性、という要素がある程度、あるいはある期間、あるいはある条件下において、強固に保持されるからだ。

それで、持つ、という行為により、対象に対する執着が発生する。この、”執着”の扱いがやっかいなのだ。

持つ、という言葉、その意味を人が物を所有することだ、とふつうは考えているが、どうも違うようだ。

持つ、ものは、”物”ではない。”物に関する執着”を持つのだ。


100年経つとものが意識を持つ、とこの国ではかつていった。そのことはものを持つということが、執着であることを端的に示しているようだ。

100年もの間の執着、あるいはそれは1代ではないだろう。場合によっては2−3代をかけての、あるいは、幾人もの人を経たのちであろう。

その、”執着”がものに薫燻している、と、そのものを見たものは思う。実は本当にそのものにそんなものがついているのではない。人は己のなかのものへの執着を、その古きものを通して感じ、見ているだけなのだ。

”親離れ”という言葉がある。あれは相当部分は、子供が自分の所有物、というと言い過ぎかもしれないが、”支配下にある”という名の所有感覚、これを意識させるための言葉だ。

また、最近気になったことは、”作者が自ら作ったものを、”勝手に”変更するな”、という主張である。

ふつう、作者は、作者のみが、自ら作り出したものを、発表後に変更できる、と理解し、意識しているであろう。そのことは当たり前のことと世間では考えているであろう。

だが、一度発表したものを、作者が作者の都合で修正すべきではない、という意見が出てきたのだ。

この視点は、僕にはなかった。しかし、虚を突かれた、というか、考えてみると”所有が執着である”ことを端的に示している事象であるように思う。

この意見は、マイナーな、公ではない、たぶん”コミケ”や”パロディ”という世界にあるひとたちの大多数の本音として出てきたものだったと記憶する。

そしてその意見は、”そんなとんでもない意識を、その世界の人間は考えるようになった。恐ろしい”という文脈で、製作者のほうから紹介されたように思う。

作者としては、たまらない。自分の作品に、”手が入れられないなんて”。



かつて、手塚治虫マンガ全集、というものが講談社から発行されていた。手塚本人が、関係している、という意味で、珍しい例であろう。

そこで手塚は、過去の自らの作品に、一部手を加えた。表紙は新たに描いたものだったように理解している。

違和感が、あった。

当然である。数十年の時間を経て、同じ絵は描けない。

だが、”作者だから当たり前”。

そう思っていた、だが違和感は、あった。違うなあ。

今と昔の絵柄が混淆したマンガを見て、実はそう思っていた。でも作者だから。そうも思っていた。

だが、昔その作品が発表されたころに接し、そこに自らの体験込で思い出す者は、変更された作品を見て、自らの思い出にも手が加えられたような思いを持つこともあるだろう。

喪失感をもって。

だから、やっと、そのような声が出始めたのだ。


コミケ、は著作権のあわいの中にある状態だ。そこでは作者は、ある有名作品を、いわば素材、原作、として扱い、そこから独自の解釈を加える。

”原作”に関する共有理解がある故に、自らの”作品”を理解してもらうのに”ショートカットできる”。

いわば方便、であるのかもしれない。そのような意識なのだろうと推測する。

ここには”所有が執着”ということが、わかりやすい形で露出している。

僕は、手塚のやり方がどう、とか、コミケがけしからん、とか、いうことを言いたいのではない。”所有”に関するドクサを、考えたいのだ。


なぜにそのようなことを考えたのか。

いや、本を処分したのだ、というかしているのだ。



この休み中、ブックオフに2回行った。まんだらけにも2回行った。名古屋は鶴舞にある古本屋2軒にも行った。古本屋で本を売るのは、本当に久しぶり、基本は、本は、売らないのだ、というか売らなかったのだ。

売って、思った。僕は本を売りたくなかったのではない。執着を、手放したくなかったのだ。

何度か、この欄で、記載したことがあるようにも思うが、3畳のわが”コクピット(笑)”、まさに、”足の踏み場がない”という状態を現出していた。部屋に入り、机にたどり着くのは、基本僕のみが可能。

床に本が山積み。もはや、”この本はどこかにあったな”という記憶しかない。読むことは、できなかった。

この状態があまり良いとは思わなかったものの、どこかで”今はインプットの時”という思いがいまだあったのであろう。いわば言い訳として。

だが、我が家には、部屋は食堂とキッチン?を除き4つ。食堂?部分が広いので、そこに2人の子供の机が置いてある。いい加減、部屋がないとかわいそうに思う。

使いやすいこの3畳を、移動せねばならないのだ。

そんな状態で、ダンボールに詰めたまま、引っ越し先へ持ってきたまま、開けなかったダンボールを開き、選別し、古本屋にもっていったのだ。

正確には終わっていない。まだ20箱くらい、ある。だがたぶん全部が本、というわけではない。

売ってみて、感じた。執着が、少しだけ、離れた。


断捨離、ということばがある。詳しくはないのだが、テクニックというよりは、心のありようこそが、所有をしているのだ、ということを、自らに理解させる、想いの持ち方を教えている、と理解している。

思い出を、捨てましょう。捨ててみて、考えてみましょう。


そう、教えているのではないか(違っていたら、すみません)。


本当に、必要な、本はどれか。そう、あの”無人島にもっていく本はどれですか”というやつの、ゆるい版だ。

たぶん、文庫は現状4−500冊は処分しただろう。昔読んで、これは面白い、また読もう、と思ったものはほとんど処分した。それは面白さをまた、という執着なのだ、ということ、面白い、という気持ちを永続させたい、という思いであった、執着であった、ということが、わかったような気がしたからだ。

処分して、なんだか少し身が軽くなったような気がしている。

喪失感、というものかもしれないが。


モノより思い出に金を使おう、という意見がある。

僕はどちらかというと、”モノ”派。食事を削っても、ものを買うことで安心していた。

だが、人の思い、経験、への投資の重要性を、すこし感じるようになって来た。僕にとっては、大きな転換である。

これが、歳をとる、ということの、の教えの一つなのかも、しれない。そんなふうに、感じても、いるようだ。





まあ、”死んだ子の歳を数えない”ように、売った金額と購入した金額の差のことは、無理やり考えないようにしているが。