夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

GW.

引き続き、部屋の片づけ中。

本を片付ける中、本に交じって出てくるのが、日記めいた書付けやら、新聞の切り抜きを張り付けたものやら。

日記というものが、後で読み返してこんなに恥ずかしいものだとは思わなかった。まあ、このブログ?も日記のようなものであるので、所詮はおんなじであるのだが、ネットであるのですこしは”お読みいただく可能性あり”ということを意識している面がある。そこが、すこし、違うような気もする。


私的な日記は、たとえそれが時間を経た自分が読み手であっても、なんとも恥ずかしいものだ。それはいわゆる”穴があったら入りたい”的な心境だ。だれから、隠れるのか?


それがない日記の”痛さ”といったら。。。

それがそもそも”日記”というものの本質なのかもしれないが。




あとは、新聞の切り抜き。1994年とかのが出てきたので、結構昔ということになるのか。で、思った。

変わらないなあ。。

おんなじような記事を、おんなじように読んで、切って、貼っている。なんともはや。

実は、今も、切ってはいる。貼っては、いないが。


いやあ、マッチが結婚だとか。加藤和彦が結婚だとか。

どうでもいいような、ゴシップを貼っていたり、する。


まあ、それが僕、というものなのだろう。そして結構昔から、新聞を情報源としていた、ということもあるのだろう。


朝日新聞に、東大卒が今年一人も入らなかった、というのが話題になっているようだ。

そのことを聞いて、いろいろ感じるものがある。そもそも、僕の、生まれたときから、18年間読んだ新聞は、朝日新聞だった。

新聞とは、朝日のことだ、と思っていた。

その象徴が”サザエさん”。

このマンガが載っていることが、”朝日新聞こそが新聞であることを示している”。そんなふうに感じていた。

まあ、社説、は読まなかった。記事が説教臭い、と思ったら、反発していた。反発を、育てる場でもあった。

しかし、客観性は、育ちにくかったかもしれない。


また、朝日新聞と聞いて思うこと。

池田晶子さんのお父君が、たしか朝日の論説委員、であった。

池田さんは、朝日に対し、たぶん批判的な立場をとっていらしたように感じる。それは、朝日、という新聞だけの、臭みであった、というのが、今は感じる。

新聞記者、というものは、ある意味文系の人間の、どちらかというと”官僚にはなれない”と感じる文学系人間の、極北、といってはすこし変かもしれないが、憧れの、職業であったのだろう。

モノを書いて、社会のモノ申そう。

そんな思いを持つ人間の。


東大が入る、ということは、その職業が将来性をもち、人気があることを、一面示す、ということになっているのだろう。東大が優秀なのか、という議論があろう。だが、受験勉強は、与えられたことを、受け入れ、試験でそれを示す能力を測るうえでは、たしかに一つの基準となる。

キラリと光る記事が書けなくとも、情報を的確に伝える能力の有無、あるいは萌芽を測る意味では、基準となろう。

要は”とりあえず使える人材”。


そんな人たちが、そっぽを向く。端的に新聞というメディアの現在の位置づけを示している。それを報じるのもまたマスコミである。雑誌媒体であるかもしれないが、所詮似たような思いでその業界に入った人間が、書いている。ここが、けっこう、せつなかったり、する。


今のひとは、ネットで情報は十分だという。十分、というのはたぶん正しくない。同じ情報は得られるが、ほかの記事へのアクセス可能性は、たぶん落ちる。だがそれが何か?と言われれば、明確には答えにくい。

これは、たぶんリアルな本を本屋で買うこと、とたとえば電子書籍を購入することとも似たような構図だ。だが、いろいろな”おすすめ”という形でのアプローチも工夫されているようだ。


本、はこの休みでたぶん1000冊は売ったように思う。本を売る、ということは、自分を売る、あるいは自分の可能性を売ることだ、という風に、いままでは考えていた。だが本当にそうなのか?この年齢になって”自分の可能性”とは、なんなのだろうか。

そして、売った。今はこのように感じる面がある。”本を売って、空間を買った”。空間に、また、新しい本を買うこともできる。

本、というものは大好きだが、空間を奪う。空間がないと身動きが取れない。新しい本も、買えない。


今回をきっかけに、KINDLEの導入も、考えている。


今までは、電子書籍を読む、ということは、本に対する裏切り、のような気もしているのだが。


いずれにせよ、本当に必要な本はなにか、それを今後は厳選して買いたいものだ、と思ってはいる。なかなか、むつかしいのだが。とりあえずは、小林秀夫全作品、で抜けている巻。悩むのは池田さんが自ずから廃刊にした処女作、”最後からひとりめの読者による埴谷雄高論”を買うかどうかだ。

池田さんの著作では、持っていないのはそれだけなのだ。


まあ、図書館で借りて、以降の本に再録されていない部分を私的にCOPYさせていただいてはいるのだが。。

どうしようかなあ。。
池田さんが廃刊になさった真意、をキチンと押さえておけば、買ってもいいのだろうが・・・。


なんて、悩めるのもある意味、贅沢な話では、ある。