夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

グノーシス。

人生の目的とはなにか。

生きる、とはどういうことか。

死とはなにか。


池田晶子さんの著書を読んでいると、そんなことを聞かれている気がしてくる。勿論その根底には”私とはなにか”という言葉が常に流れる主旋律のようにあり、善とはなにか、ということが骨太に提示され、善く生きる、ということが一つの啓示として立ち上る。

そも”いのち根性”がさらさらなく、死は無い、のだから今ここに在る生もない。無い死を恐れず、年を経てただ知ることで得られる情報を溜めるだけでは、無意味に年経るだけであり、自ら考えてのみ叡智ある老人となることができる。


まあそんな感じのことを思うのである。


グノーシスとはギリシャ語で叡智のことであるという。その言葉を意識したのは、ヘッセの”デミアン”でいわば隠された真実として提示されたデミアンや、その両性具有的な母親、そして”アブラクサス”の語であったろうか。そして池田さんの著書を通じて手に取った”ユング自伝2”にて再びグノーシスを意識する。ヘッセとユングの接点があったことを知る。

しかし、ユング自費出版してしばし友人に配布したという小冊子という形を取った”死者への七つの語らい(1916)”は一読難解であった。しかしなにかが僕を捕らえた。なにか真理のようなもの。あるいは純粋ななにものかとして(ユングは1945年に発見された初期キリスト教文書であるナグ・ハマディ写本の一部を実際に所有していた)。

語の前提が、わかりにくいのだ。異端として正統派キリスト教に抹殺されるような要素は一体なんなのか。異端と聞いて今の時代思うのは”悪魔”であったり、”異教”であったり、”堕天使”といった語である。

しかしそれらの語は、正統派といわれるキリスト教が教会としての仕組みに合わないものを排斥するときのいわば方便として使われるものであることは論を待つまい。

グノーシス派では創造主(デミウルゴス)であるヤルダバオトはそも邪悪なものであり、邪悪なものとして世界を作った。世界が偽りにと苦しみに満ちていることの理由を、そう捉えた。正統派とされるキリスト教ではそれは悪魔や堕天使といったもので説明されようとした。ヤルダバオトは後ろ足で立つライオンで表されるという。

デミウルゴスによって生み出されたこの邪悪な世界で、ギリシャ語で”支配者”を意味する”アルコーン”が人間の霊的本質を肉体に閉じ込める役割を負う。そのアルコーンのなかで上位のアルコーンであるのがアブラクサスである。人間の体に鶏の頭、蛇の足を持つものとして表される。その名をアルファベットとして数に換算すると365を表し、1年を司る象徴ともされる。ユングが仮託したエジプトのアレキサンドリアのバシレイデス派では、アブラクサスこそこの世を創造したものであるとする。

このあたりがややこしいが、数あるアルコーンの中で高位のアルコーンであるアブラクサスは、上位の存在であるアイオーンに昇華したとされる。

ではアイオーンとはなにか。それは2対8体(概念)、つまり4つの両性具有的概念を中心とした神のような概念であろうか。そもそもアイオーンとはギリシャ語で”時””時代”を意味する語であり、それが抽象的な”愛”や”真実”といった語の擬人化されたものとして変化したもののようだ。それはプレロマにあり、プロレマは天国、あるいはこの世界の上位にある世界と見なしてよかろう。

そのアイオーンの中で最低位ものにピスティス・ソフィアというものがあり、これは知恵を意味する古代ギリシャ語のソピアーの擬人化されたものであるという。神の女性的側面が流出した存在、ともいえるだろう。その低位アイオーンであるソフィアの父神への熱情から伴侶無く生まれたのがヤルダバオトであるという。

8体の最高位アイオーンの中のもっとも高いものが父神に相当するのか、ヤンダバオトとはではアイオーンであるのか、それとも自らもアルコーンであるのか(このあたり、仏になる過程である菩薩、を思う)、アブラクサスがヤンダバオトに代わる存在であるのか(派が違うので、位置としてはそうかとおもうが)、そもはっきりしたものがないのがこうした神話の常であるが、いずれにしてもグノーシス主義創造神話というものがなんとなくわかってきた。

キリスト教の一派というが、非常に肌触りはいわゆる教会派のキリスト教と違う。その違いが端的にこの考えを異端としたのであろう。そもこの世を邪悪なものと見る思想は、この世を無常と見なす仏教とも通じるようだ。数ある擬人化で真実の姿が見えにくくなるが、象徴としてあらわされた概念は要は苦しみに満ちたこの世界をどのように生き、どのような姿を目指すのか、ということに尽きており、その理解の為の方便としての擬人化であるだろう。

ほとんど同じことを言っている。そして池田さんも。

そうした擬人化は神を、以ってするいわば”お約束の人形遊び”のようなものであり、ルールを持った遊戯の面をしっかり理解しているのなら、好きに楽しめばいい、といまは理解している。

ユング自伝 2―思い出・夢・思想

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デミアン (新潮文庫)

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