街場の教育論 内田樹、P.153
知とはなにか
一つの精神がおのれの外部にある別の精神と触れるのに用いうる唯一の道具、それが知である。
エマニュエル・レヴィナス
P.251
宗教教育は可能か
私自身は宗教性ということをこんなふうに考えています。
自分を無限に広がる時間と空間の中のわずか1点にすぎないという、自分自身の「小ささ」の自覚、そしてそれにもかかわらず宇宙開闢以来営々と続いてきたある連鎖の中の一つの環として自分がここにいるという「宿命性」の自覚。この二つだろうと思います。
吹けば飛ぶような粒子のようなものにすぎないのだけれど、にもかかわらず私には遠く理解の及ばないある連鎖の結果として、他ならぬこの時間にこの場所にいる。私はとりあえずある種の生命の運動の繋がりの末端におり、私を起点にして、さらにそれが続いてゆく。自分自身の存在の不確かさと確かさを同時に感じるということ、あるいは自分が存在することの偶然性と必然性を同時に感じるということ、それが宗教的体験ではないかと思います。
いささか長々と引用させていただいたが、宗教とは、ということをグノーシス、という切り口で考えている。仏教の中ではすべての中に仏性があると説き、現在のキリスト教の主流では神、キリストを通してのみ救済されると説く、そしてその契機となる場所が教会である。
正しいかどうかわからないが、現在はそのように理解してきている。そしてグノーシス派が何故迫害され、異端とされたのかを考えると、①人間の中に「神的火花」「本来的自己」が存在するという確信(グノーシス主義の3つの定義のうちの一つ。1966年イタリアシチリア島メッシーナにおける「グノーシス主義の起源に関する国際学会」での定義による。P.184 筒井賢治 「グノーシス」)があることがまず挙げられよう。ものすごく微細であるかなきかのものであろうと、本来人間の中には神と連なる要素がある、とするもの。それがグノーシス主義である。グノーシスとは叡智のこと。日本語としては濁音が入る語感で、異端らしい印象があるが、これは叡智主義、という意味だったのである。自らは神に連なるもの、神の一部である。これは仏教の教えに似ている。自らの現在の姿を大きく肯定するものである。無常を教える仏陀とは肌合いが違う気もするが。
いずれにせよ、神に連なる身である、という主義と、神のみが救いをもたらす、信心が必要である、と説く現在の主流である教会派のキリスト教が、考えたら一緒にやってゆけるはずはない。出発点が違うのであるから。
それが異端となり、命を奪うような時代はやはり厳しいといわねばならない。今はこうして考えることが出来る。それは逆にいうならば自らが選んで、宗教とは、と考える必要があるということだ。これはこれで厳しいものがある。なにしろ考えないとわからないのであるから。
そうしたときに宗教教育とはなにか、という内田樹氏の考え方は重要な指針になるような気がする。
そして、内田氏のおっしゃる連鎖性、というものは、神とのかそけき繋がり、という考え方とすこしく共鳴しているような気も、している。
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