「無」が存在した時があった。この「無」とは、存在するものの一種だったのではない。そうではなく、単純かつ留保なしで、いかなる屁理屈もなく、全面的に「無」が存在したのである。「存在した」というのは、(何かが)「存在した」kとを言い表したいのではなく、「全面的に無が存在した」ことを表示したいがための記号である。
P.91 筒井賢治 グノーシス より
バシレイデース理論はこの「無」に対する考え方から、「存在しない神」という考え方へと向かう。この存在しない神から人間を含む全宇宙が成立するのである。これをラテン語で「テオロギア・ネガティーウア」という。直訳すると「否定神学」となる。
この「存在しない神」があるとき「種子」を一つ下においた。全宇宙は人間も含めてこの種子から生まれた。ここから3つの「子性(こせい)」が生まれる。
第一の子性は、種子を出ると直ちに「存在しない神」の元に戻る。第二の子性は、自らは上昇できず、そのなかから「聖霊」が現れて第二の子性を上に運ぶ。しかし、第二の子性は神の元に戻れるが、聖霊は上位世界と下の世界を隔てる「境界」/「蒼穹」としてその中間に留まる。第三の子性は非常に鈍重な要素を含み、下の世界に留まって浄化を必要としている。
その後種子から、「オグドアス」(第八)の支配者が生まれ、その支配者から子が生まれる。子は親よりも優れた存在とされる。この支配者が恒星天を創る。
更に「第七」=ヘブドマスの支配者が生まれ、子が生まれる。この子も親より優れている。この支配者が惑星天(地球も含まれる)を創る。
この創造は、既にあったものを加工する、というニュアンスを含み、「職人」が原義の「デミウルゴス」の語が出てくる。
この時点で二人の支配者とその子、第三の子性たちは上の世界のことを知らない。
しかし、なにも上からの働きかけなしに、聖霊=蒼穹から「福音」=上なるものに対する知識(憧憬)が、第八の支配者の子、第八の支配者、第7の支配者の子、第7の支配者の順に浸透し、「365の天」を通過して、マリアの子イエスに到達する。
ここでイエスが受難=殉教もしくは死を経てその中に含まれる「第三の子性」が上昇を遂げる。
これが救済の幕開けであり、その後「第三の子性」は次々に上の世界に入り、いつかはプロセスが完了する。そして「第8の支配者」以下、上に本質的に上昇できないものは、憐れみを受け、神が「大いなる無知」を与える。これによって、いかなる存在も「自らの本性を忘れて上のものに憧れて苦しむ」ということがなくなる。
これがバシレイデースの宇宙創世神話である。(筒井賢治「グノーシス」P.94-102)
ユングは1916年の「死者への七つの語らい」の中で、アプラクサスについてこう語る。ユングは自らをバシレイデスに擬して語るのである。
神と悪魔は充実と空虚、生産と破壊によって区別される。「はたらき」ということは両者に共通である。はたらきは両者をつなぎ、従って両者の上に存在する神の上の神である、と。
これは人類が忘れ去っていた神である。アプラクサスは太陽の神の上に存在し、悪魔の上にも存在する。もしプレロマが一つの存在であるとすれば、アプラクサスはその顕われである。
それははたらきそのものである。しかし何か特定のはたらきではなく、はたらき全般なのである。それはプレロマから区別されるのでやはりクレアツールである。アプラクサスは力、持続、変化である。
アプラクサスの力は二面的である。
と。
アプラクサス、が創世神話上のどの位置に属するのかはよくわからない。ユングのアプラクサスが、バシレイデスのアブラクサスと同じなのかもわからない。
作用(はたらき)であり、神(太陽)と悪の上に位置する、という部分はグノーシス(叡智)的である。
僕はユングの書いたこのアプラクサス、という存在が気になって、グノーシスの書を紐解いた。創世神話を知って改めてユングの文を読むと、より分かりやすくなった気がする。バシレイデスの世界は他のグノーシス派の神話とは違っている、という印象だ。よりシンプルである。
アプラクサスは現在の僕の理解では、オグドアス(第8の支配者)=恒星系のデミウルゴスの子、にあたるものであろうか。まだ、確信はない。
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