夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

新しい出会いとなつかしい出会い。

いささか陳腐な言い回しになるが、本を読む、ということはその作者の内面と深く会話している感じとなり、自分の魂が作者の魂と出会っている、という感じがする。

出合って、会話をしているわけではない。また、作家自身がこちらを認識しているわけではないな、とも思うのだが、しかし本、というものは作者の魂が分配されて入ってる、という感がなぜかしてくるのである。

であるので、読んだことの無い作家の本を読んで、ああ、この作家のことをもっと知りたい、となると、あたかも新しい知り合いが出来たような気がする。

実際の出会いの場合、多くは相手の顔を見てから知り合いになる、という順番だと思うが、本(文章)を通しての出会いの場合、相手の魂を感じてから、そのあとで作者の”近影”なぞを見てその風貌を知る、ということになるのだろう。勿論本に写真が載っている場合があるが、そうで無い場合もある。

顔を見てから知り合いになる、というのがいけないわけではないが、魂を見てから知り合いになる、というほうが何か本当に相手を知った上での知り合い、という気がするのも確かである。

そういう意味では本、というものには魂が込められているわけだが、それが上手く伝わるかどうかには、勿論こちらの精神状態なども関係があるだろうが、やはり本自体に”上手く魂がこもっているか”ということも関係するだろう。”入魂”の作、という言い方があるが、それなどもそういったことを示していると思う。

池田晶子さんの場合、その始めての出会いは、図書館でふと手に取った”41歳からの哲学”であった。哲学のコーナー、普段は行かないそこでなんとなく手にとって読んだことがきっかけだ。この本にはにっこりしているたぶん2003年頃の池田さんが写っている。素晴らしい笑顔である。だが、確か、文を読んで、ああ、と思って池田さんの近影を拝見したのである。

これは別に顔を見て知ることがいけない、といいたいわけではないのだが(いっているか)、魂を感じたよ、ということがまずはいいたいのである。

多田智満子、という人を知った。須賀敦子氏の”ユルスナールの靴”文庫版あとがきで初めて知った。翻訳者として知ったのであるが、詩人としても著名な方であった。そして、澁澤龍彦矢川澄子とも交流があった。こうして別の作者の著作から新しく人を知る、というのも、魂に紹介された、という気持ちになる。

これは作者だけではなく、編集者の力、でもあるのだろう。いま、例えばこうしてブログなどで、誰もが文章を発信できる。散文とはしかし、責任のあるものだ。そうした責任の一端は、編集者が担っている。売れるかな、というだけだろうと前は思っていた。しかし、本として人の中に意味のあるものを産み出そう、という思いもまたその中には含まれるのだ、ということに最近気づいた。池田さんも言っている。編集者は戦友のようなものである、と(そしてそう思うようになったのは、編集者と壮絶なケンカをして自著を自ら絶版にする、という苦い経験のあとであったわけだが。であるからしてこの言葉は味わいが深い)。編集者と著者、というものもまた、魂の友であるのだろう。

ブログには編集者がいない。正確には他人の編集者は。しかし、自分の中に編集者を持って、”じゆうきままにかきちらす文章”のままで果たしていいのか、という思い、これがなくてはならないのだろう。

謙虚、という言葉の人の顔色を伺う、という部分を省いた部分、自らの魂に謙虚である、というスタンスに、それは若干近いかもしれない。

今回の震災にあたり、詩人たちは、”言葉になにが出来るのだろう”と痛く自問自答している。言葉に直接繋がって生きているようなところがあるので、余計に痛々しいまでに考えている。

祈ること、しかないのかもしれない。勿論現実には募金やボランティア、ということになるだろう。それとは別のなにか、相手のためだけではない、自分の痛み、のためだけでもない、なにか。世界大の霊魂、というものがあるのなら、それに向けて、あるいはその一部同士としてのなにか。それが祈り、ではないかと思う。

須賀敦子を読んで、ああ、という詠嘆を自分の中に感じて、ふと車窓から蒼穹を見る。蒼穹は永遠へとつながるものだ。我々は天を通じ、四六時中いつも”永遠を体現するもの”につながり続けているのだ。これはすごいことだ。池田晶子さんは喝破した。UFO?幽霊?なにが不思議なことか。自らが今こうして生きている。これ以上不思議なことがあるか、と。

ああ、この一喝。世の誰もが、”わからない”と初期反応しつつ、実は魂ではわかっていること。でもなぜかあまりだれも言わない、気づかないこと。そんなことを目の前にドーン、と置いて、正面から論ずる。まさに巫女の技だ。神の言葉をいうのではない。それはあなたの中にある。
いわば”魂の産婆術”だ。

そして文章に同じような思いを抱く人たち。これを”詩人”と呼ぶのだと思う。
”指先からソーダ山崎ナオコーラさんの著作もまた、そうした志向を持つものだと感じた。なぜならこの本を読んでやはり、車窓から蒼穹をみて”はーっ”となったからである。この文章とは実は朝日新聞の土曜版で出会っている。朝日新聞はその主義主張が極端な部分あり、と言われる部分があり、社会的な主張にやはり僕もそう思うものはあるのだが、生まれてからたぶん30歳くらいまで読み続けたものであり、その文学に関する造詣やスタンスはやはり素晴らしいものがある。そもそも政治に興味がなかった僕は、社説というものを読んだことがなかったし。
山崎さんを登用されたことも慧眼の一つ。思わず切り取って手帳に貼り付けた文章も多い。
それを纏めた文庫本を手にとって、この本が初期の本である、と書かれていて驚いた。切り取っていたのはつい最近のように思っていたので。知らぬ間に時が経ったのだなあ、ちょっと心配になって僕はそう思ったのであった。

指先からソーダ (河出文庫)

指先からソーダ (河出文庫)

尚、表紙の写真。山崎さんではないかもしれないが、大変素晴らしい。これだけでも大変得した気がした。あ、間違えた。本を産み出すもの。それは編集者と作者とそして”装丁者”だ。
本とは幸せな分業である。