夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

某編集者の心理ソンタク。

書こうとして書いたものは、文字通り書こうとして書いたものでしかない(学校の指定図書読書感想文のように)、とえらそうに少し思う所も無くは無いので、出てくるまで待った、というところも少しはある、などとゴタクを並べている暇があるのかどうかはわからないが、池田晶子著”オン! 埴谷雄高との形而上対話”の書評を行ってみたい。

全文は無理であろうから、一部をAmazonの書評としても投稿の予定である。

ハニヤユタカ、イケダアキコ、そして例えばコバヤシヒデオ。
精神のある状態を、重なりを示す記号の如きもの。
宇宙の中での精神の在り様の一つのつぶやき

 何故私は私であるのか

を共有する魂の共鳴を傍で聞いたなら。

それは陶然とするか、己の存在の足場の大崩壊を、為すすべなく見つめるかの二択であるだろう。

凡百の人間は後者となり、己とて一流たりとの矜持を持つ者は持つ者程そこでその2つの精神のうち自らの支配下に(社会的に)在ると思われる年若いものを(本能的に、己が存在するために、という自らの小さな矜持のために)つぶそうとすることは必然でもあったろう。自らの生命の危機さえ或は感じて、切羽詰まって。

池田晶子と某編集者との関係は或いはそのようなものであったかと思う。

某編集者の心理をここでソンタクすると、そんな感じであろうか。

しかし、あるべきように在る、そのときがいつかはわからぬが、本書の発行年である1991年であると仮にして、その18年後(!)に見てみれば、その”つぶし”がイケダアキコの”いまにみてらっしゃい”を生み、それがその結果を変えることはなかったかもしれないが、プロセス、或いはスピードを変えたかも知れない。

という働きをしたことはこれも真実。負のストレス、そしてそれをはねのけようとする若い魂の反発力と持久力、ねばっこさ。

その魂は粘っこさに大きな価値を見つける人でもあった。言い続けるしつこさ。

某編集者氏がいまどのように考えているのか。そのときのことをどう反芻するのだろう。

 私の眼の黒いうちに、池田君はなんとかならんかね。

とハニヤユタカは常々言っていた、という。だがこの援助も考えて見ると某編集者氏がいなければ無かったかもしれないのである。

”禍福はあざなえる縄の如し”

母がハニヤ氏であるなら、反発する先としての仮想敵である彼も又、継父位ではあるに違いない。

オン!

オン!