夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

墓碑銘。

墓碑銘、というものに、特別興味があったわけではない。

意識したのはやはり、池田晶子さんが亡くなったあと、「週刊新潮」に掲載されたエッセイのタイトルである。

”生きているものは必ず死ぬという当たり前の謎、謎を生者に差し出して死んだ死者は、やはり謎の中に在ることを自覚しているのである。あるいは、死者を語ることを含め、すべては物語であるという自覚。”
P.156 人間自身 考えることに終わりなく 池田晶子

楽しいお墓ウォッチング。池田さんが思いだされた墓碑銘は、ラテン語での一言、「次はお前だ」。

そして日本で皆が書きたがる「色即是空」や「諸行無常」は一刀両断、”こういうことを言いたがる人や遺族は、実は自分が死ぬということをまだわかっていないのである。”

こういうところの、池田さんのセンスが堪らなく好きである。自らが謎にあり、あった、そしてあり続けることを「さて死んだのは誰なのか」と表現された。これが自ら表現の場に刻まれた墓碑銘であろう。

死後発行された3冊の本、「死とはなにか」「私とはなにか」「魂とはなにか」、これらの本は実は出版社が別々であるのに、装丁は共通している。その辺りに池田さんを巡る出版社のというより編集者の愛惜を感じるのであるが、そのサブタイトルは全て前出の池田さんが”自ら刻まれた墓碑銘”、さて、死んだのは誰なのか、である。

書架に3冊並べて置く、それだけで池田さんのお墓を我が部屋に”勧進”したようなものだ。いわば仏陀の骨を奉じる仏舎利の如し。
ただし、そこにあるのは池田さんの聖骨にはあらず、池田さんの”考え”だ。あるいは池田さんの”考える”だ。
ちょっとそれを”魂”といいたくなるようなものだ。

この稿を書くために「人間自身」を紐解いていたら、実際に池田さんがなくなる直前に書いたとされる”混浴の温泉場”、実は病床にあった池田さんが、それをおくびにもださず、雪崩にあった鶴の湯温泉に講演に行かれたことが書かれている。

これはこのブログでも何度も書いたのだが、当時は”池田さんらしくない”との感想があったものだ。

そのことへの感想は何度も述べたのでここでは省くのだが、実は今回読んでいて、つい読み飛ばしていた池田さんのそれとはない”状況の説明”があることに気づいた。

”この異様に寒がりの私が、この時期に自転車で犬と散歩する時には必須のアイテムである毛皮のジャンパーを引っ張り出さずにすんでいる。あれなしに冬を乗り切ることなど思ったこともないというのに。”
P.150 人間自身 考えることに終わりなく 池田晶子

この文章の前には、例年にない暖冬だ、ということをおっしゃっているので、これは普通に読めば暖かいので、ジャンパーなしで散歩に行っていると、読むところであるし、池田さんもそのつもりであろうが、しかしこの文章は病室で酸素吸入器を持って書かれたものだと後で読んだものだ。散歩どころでは勿論ないだろう。

しかしそのことは読者に何の関係もない。死にのぞみ、あたかも”謎に生き、謎に死んでゆく”池田さんにとって、そのことはいわばどうでもいいことだ。しかし、その時、たぶん散歩どころでは、なかった。

暖かさを理由とされてはいるが、実は”散歩にいけない”ことを、事実を、すこし書いた。伝えよう、としたわけではないが。

そう読めることに気づいた。

しかし、池田さん、JJ読者モデルを務めた方が故の一言、”ジャンパー”の言葉が心地よい。あたかも、精神の世界へジャンプしてゆく人の衣装、という語感がする。

人間自身―考えることに終わりなく

人間自身―考えることに終わりなく

(墓碑銘3部作)

私とは何か さて死んだのは誰なのか

私とは何か さて死んだのは誰なのか

死とは何か さて死んだのは誰なのか

死とは何か さて死んだのは誰なのか

魂とは何か さて死んだのは誰なのか

魂とは何か さて死んだのは誰なのか

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オビ付きで持っているが、オビなしでも存在感のある装丁だ。

はてさて、実はこの稿、きっかけは池田さんではなかったのだ。

高峰秀子さんであったのだ。

27歳のデコちゃんフランス出奔の巻、である処女作「巴里ひとりある記」を手にいれたことは先般本ブログにて紹介したが、その後立て続けに2冊の”高峰本”を入手した。

巴里ひとりある記

巴里ひとりある記

平成14年、2002年に発行された、高峰秀子名義のエッセイ単行本としては最後となる”にんげん住所録”と、斎藤明美著”高峰秀子との仕事”である。

にんげん住所録

にんげん住所録

高峰秀子との仕事〈1〉初めての原稿依頼

高峰秀子との仕事〈1〉初めての原稿依頼

にんげん住所録、の方は、高峰さんの最後のエッセイ群である”にんげん”シリーズの3作目。そして、高峰さんの養女である松山明美さんこと斎藤明美さんの著作は、2010年12月28日、86歳で高峰さんが亡くなる直前、斎藤さんが養女になる年である2009年から2010年10月号まで雑誌連載されたものだ。2011年4月に発行されているので、その巻頭には連載終了後、高峰さんが亡くなった状況が前書きとして付される。

誠に愛惜にあふるる文章である。

いや、年を取ると訳なく涙腺がゆるくなる、ということを実感する身であるが(この前は懐かしいなと思うだけで・・。いやあ、参りますな)、マクドナルドで190円のアイスカフェラテを飲みながらも、ついつい涙腺が弛んでしまった。まあ、最近は花粉症で誰もが泣きながら洟をたらしているので、そして僕は花粉症であるので、それほどうろたえはしないのだが。

とにかくも、筆を(ほとんど)折ってからの高峰さんのことは、斎藤さんに聞くのが一番、というのが感想である。

その2002年、78歳くらいの高峰さんの、最後のエッセイの巻末を飾るのが、”私の死亡記事”。これは平成12年、2000年に文藝春秋から102人(だったかな)の存命の人物に、自分の死亡記事を書いてくれ、と頼んで本になったものだ。その中に高峰さんが書いたものが掲載されている。

実はこの本、持っているのだが(図書館除籍本として入手)、ほかの本同様(?)入手してぱらぱらめくって本棚にならべたっきりだったのだ。

私の死亡記事

私の死亡記事

高峰さんが自らの生を俯瞰した文章は、とにかく短い。だが、言うべきことは全てを含んでいる。まさに必要にして十分。晩年の研ぎ澄まされた自分のための生活、を彷彿とさせるが如き”高峰節。

高峰さんの原稿を見て、”私の死亡記事”を取り出して見た。高皆さんのを、基準に見ると、大半のものは自意識過剰、に見えた。池田さんのいう、”自分が死ぬ、ということを本当にわかってはいないで、「色即是空」と書いてしまう人”が大半であった。勿論偉そうなことは言えない。僕でもそうなる。

だが、高峰さん。これは違う。短いのなら、ほかにある。印象的なのもある。しかし、与えられた”死亡記事”、それも新聞の、を理解し、意識し、注文に応える度、では随一、である。これが高峰秀子、なのである。

そのことに、とことん惚れて編集者としての縁を得て、最後は養女に、高峰夫妻(松山夫妻、というべきかな)に望まれてなった斎藤さんは、よく、おわかりであろう。

思わずわらったのは、自分の死亡記事では、”医師、病院の手を煩わすことは全くなく”と書いた高峰さんが、骨を折った時の話だ。寝ていれば治る、朝起きたら元通りになるのでは、といい、台所でつぶれたカエルのように倒れ続け、救急車を呼ぶのを拒否する姿に自己の流儀を守る高峰さんの信念を、ほとんど強迫観念にも近いような信念を、感じるのである。


斎藤氏は、そのことがわかっている。”オットドッコイ”松山氏もわかっている。尊重したいが出来ない。1歳年下とはいえ、松山氏も84歳の老齢だ。だからしかるように言う。みんな、解っている。大変な場面、ではあるが、なにかほほえましささえ感じる。

そんな、本たちである。「人は羽織を同じで、裏と表があります。裏は決して他人に見せるものじゃありません。脱がなければ見えません。私は羽織の裏に贅を尽くし、大切にしたいと思っています」
P.250 高峰秀子との仕事

斎藤さんが語る高峰秀子の信念。なんとも上品な人間がここにいる。


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さて、池田さんの墓碑銘に、高峰さんの死亡記事。

僕は、自らの生を、どのように俯瞰できるのであろうか。