夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

テレビ三昧。

テレビを一日中見ていた。

テレビというものとの付き合い、これは人が1日の、あるいは人生のエネルギーや時間、時間という名の財産をどうつかうかに大きく影響を与えるものである。

”ずっと見ていては時間があっというまに過ぎてしまう”し、”眼も疲れる”。”視力”は体力と同じで限界があるだろうから、深いところでは”いかに生きる”に繋がってしまう問題である。

例えば池田晶子さんなぞは、新聞やTVはニュースを中心に、愛犬との散歩の天気情報を得るために見るではなく見る、ということが中心であられたろうから、そもそもそんな問題は発生しない。
”宇宙”や”科学”、NHK特集、的なものはテーマを見て、たまにはごらんになったようだが。

やはり”見切っている”。

TVはしょうもない、という意見でよくあるのは、お笑いのバラエティが多い、ということである。僕の意見はちょっと違う。面白い番組はやはりある。だが、優先順位をどうつけるか、である。映画などは、機能が大変不足しているPC環境である僕としては、録画で見れるとありがたい。このあたり、まだまだ池田さんの境地には程遠い、と感じる部分だ。つまり”見切れてない”。

見切れていない僕がみたのは、録画である。CMというものをいわば4コマ漫画のような自己表現の場、あるいは映像作品と思っていた僕は、過去広告代理店も受けた身だが(当然落ちたが)、まあ、CMを見る場合は時間を浪費する面が確かにある。最近は録画ではCMを見てもらえないということで、番組をリアルタイムで見て、ボタンを押して確認させる、つまり”CM込みでTVを見ていると、スポンサーが認識してくれるかもしれない機能”が追加されたようだが、所詮CMの間にトイレに行くこともあり、”焼け石に水”という感じもする。TV業界もなかなか大変である。家電としてのTVは、視聴者のためにCM飛ばし機能等が必要で、家電業界とTV業界のニーズは相反するわけだが、ここの機能などは、結局TVを見てもらえたほうがTV受信機は売れるわけであり、苦しい同士の中期的ニーズが合致した、ということなのかもしれない。

さて、1日中、いろいろと見たわけだが、最近は”みんなが見ているものは見たくない”という呪縛を離れつつあるので、紅白、大河ドラマに続き、”朝の連続小説”まで見ている。そう、「あまちゃん」だ。

このドラマ、全国的に視聴率は高いが、関西では余り見られていないようだ。関西人にはちょっと”タルい”とみえてしまう気は確かにする。どちらかというと”綺麗に、かっこよくまとめようとした、品のいいコメディ”臭さが、本音を異様に重視する関西人気質にあわないのでは、と個人的には感じるところだ。

まあ、関西では、”けっ、NHKか”という、なんとなく公的な役所的なものをうさんくさく見る気質が、あると思うのだが。多分。

ああ本稿ではそのことを言いたかったのではなく、映画”ニューシネマ・パラダイス”について少し考えてみようとしたのだった。

父をなくした少年。孤独で、夏は暑く、冬は寒い、映画映写技師。映画は、少年にとっての”別の世界に開ける魔法の窓”であったろう。シチリアの寒村の”唯一の娯楽”。濡れ場やキスシーンは、牧師が事前にチェックの上、ダメなところは”ベルで指示”。

映画の中の生を、村人は大衆演劇でも見るように、野次り楽しむ。

TVの創世記のころも、同じようであったようだ。映画が、魔法の一種であったころ。

映画人のノスタルジーを感じるこの部分、近作の”ヒューゴの不思議な発明”を思い出した。両作とも、映画人は高く評価、世間はすこし冷めている、というところも似ている。

映像は、個人のスマホで見るものになった。”伝わらない””相手がいない”映像へ野次る、なんて行為はだれもやらない。映画を見せて頂く時代から、風景のように映像がある。今はそんな時代になった。この映画では違う。たぶん、そういう観客がいて欲しい。そこのところで、”作る側”としてこの映画を見るか、”見せられる側”として見るか、ここがこの映画への印象が大きくかわるところだ。

で、多分僕は、気持ちとしては”作る側”にいる。なにかを作りたい、という思いは共通している。だからこの映画が嫌いではないのだろう。

映画好きとは、映画を見ることで、縦横無尽にそれを語り楽しむ、ということを含めての活動を指す。そういう映画好きが、減った。

TVも同じ。いかにリアルタイムに”CM込みで”見てもらうかに腐心する。多分、製作者は心の底で思っている、”無駄な努力だ、でも金を稼ぐ装置として出来るだけ延命せねば”と。

ノスタルジーが、「なくなりつつあるものを熱く語ること」である時、それを共有するものは”自分たちのことだ”と感じ、共有しないものは疎外感を得る。”シネマ”も”ヒューゴ”も、そのような構図がある。”映画好き”は好き、”映画を娯楽の一種と考える一般人”はひややか。

映画に対するすノスタルジーはちょっと置いておいて、この映画は一方で人が人に伝える、ということ、伝え方の難しさ、そして生きるとは様々な因果関係”ここでこれがなかったら、あとこうはならなかったなあ、とあとで振り返って思うこと”、ということを考えさせられる映画であった。

つまり、時を置いて、自分の人生を第3者的に、客観的に、ふり返って見る、という行為のせつなさとやるせなさのことである。

最近僕はけっこうこれを感じることがある。30年ぶりに行ったショッピングセンターで、昔食べたソフトクリームがまだ売っていたこと。そのころ夢のように綺麗に見えたショッピングセンターは、うらぶれてシャッターが目立つ、”終わった”ように見える場所だった。

その強烈な体験。自分が遠くにきたのだ、という感じ。それと同じものをこの映画で体験した。それはいい、とか悪いとかではない。人に影響されたかもしれないが、結局は自分の人生。それを俯瞰することの、なんともいえない、切なさ。

それが、この映画の、要は言いたかったことだ。

で、改めて、自分としては、そこから歩き出して、未来に行くしかない。
主人公が形見として受け取った過去の”今では当たり前になったそのときの放送禁止シーン”が繋がったフィルム、そしてときめく心そのままに思わず撮影した”後に恋人になり、別れた女性”の映像をみて流した涙の理由は、たぶん、そういうことになるのだろう。

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